ツァイト・フォト・サロン 偶然にせよ、あるいは必然にせよ、カメラというメカニズムによって可能となる写真表現において、対象(=被写体)の要請が途絶えることはない。《写真とは常に既に 「何かの」 写真である。》 (清水穣 『不可視性としての写真』 )
だが、その一方で写真とは、メカニズムや素材の物理的な要素のみならず、抽象的な思考に根ざすものであり、経験、予測、判断、感情、出来事さえも包括するような事象の総体そのものであるとも言えるのだ。瞬時に起こるデジャ-ビュ(deja-vu)のように、不意に記憶が蘇ること。いま・ここで見ているものが、かつて見た(場所、モノ、人などの)イメージと重なり合うこと。それは、誰もが体験していることではないか?
たとえ、写るものしか写せないとしても、見えるものと見えないものとの狭間に、分かるものと分からないものとの狭間に、自身と写真を置いて考えてみること。まずは、対象を感覚することに徹底的に溺れ、純粋に、且つただ漠然と受け止めること。そして、写真の展開可能性を世界の在りようを探る手がかりとして試行すること。
写真という時空に、とてつもなく慎重な在り様で身を投じる。それが佐野陽一の写真という覚悟である。
写真が達成してきた光学的技術--肉眼より精密な、あるいは歪められた視覚--を駆使してしまわぬように、被写体と対峙する。写真特有の技巧や解釈しやすい視覚的記号によって、被写体に在るものを壊してしまわぬよう、じっとそこにいる。まるで世界そのものを写しとどめようとするかのごとく、固唾をのんで絶妙な距離を保つのだ。そして曖昧とも思えるこの距離感が、物事を受けとめようとする感性を最大限に機能させる。徹底して見る者のアイステーシスを引き出そうとする。
被写体とどのような態度で関係しているのかが、否が応でも明らかにされてしまうメディア、写真。佐野陽一が見せる被写体との距離がどのように変化していくのか、作品を逐うごとに興味深くなる。
まだコメントはありません