「αMプロジェクト2011 成層圏 Vol.4 松川はりx 川北ゆう」展

Gallery αM

poster for 「αMプロジェクト2011 成層圏 Vol.4  松川はりx 川北ゆう」展

このイベントは終了しました。

川北と松川ふたりそれぞれの作品を見たときに、「たゆたえども沈まず」という言葉が想起された。いささか唐突に思われるかもしれない。パリ市の紋章に記された、よく知られた銘文で、もともとはセーヌ川を航行する水運のための帆船が、荒れた川の激しい波にどれほど揺さぶられようとも、決して沈むことはないという意味である。水との格闘がもたらす緊張状態、それをとりあえず言い表した言葉として真っ先に思い起こされた。

川北の作品の表面は、流麗で繊細な線によって覆われている。悠久な水の流れを見事に写しとったかのような線は、絶妙なイリュージョニズムを生みだし、物質性を超え、時間性をも超越して、静謐で幽玄な自然の世界を思い起こさせる。したがって、一見しただけでは、そこには緊迫した水との関わりは見受けられない。しかし、彼女の作品は文字通り身体的に水と渡り合うことによって生み出されている。よどみなく流れるように見える線は、実は振り乱された髪のような激しい動きの痕跡でもある。そして、その緊張をはらんだ水と身体との格闘の瞬間は、自らの主体性の保持と喪失という両義的な危ういバランスのもとでの、はりつめた瞬間となっている。水をコントールすることによって自分の主体性は保持されるかもしれないが、一方で自分のコントールを離れて水は自由に迸り、自らの主体性は揺るがされる。彼女の作品からは、この緊迫感を感じとらなければならない。

水とは、そもそも両義的な存在だ。船を沈ませもするが、そもそも水がなければ船は浮かぶことができない。水が命を奪うこともあれば、命を育む羊水にもなる。この両極の間に横たわる境界面にこそ、川北と松川の二人の作品はある。

この境界面を、水面としてとらえているのが松川である。水面は、「わたし」をふたつに引き割く。水面に映った自らの姿に恋したナルキッソスのように、水面は他者としての自分を現出させる。「わたし」が「わたし」でなくなる境界線。水のうえから水面を見つめる自分と、水の中から水面を見つめる自分は、目に見える世界がまったく違って見えることからも想起されるかもしれないが、まったく異なる自分なのかもしれない。彼女の作品の透き通るような青さもまた、透明になり、物質的存在感を喪失しそうな「わたし」をメタフォリカルに示しているように見える。透明になった「わたし」の背後に、もうひとりの「わたし」が透けて見えるかのようだ。実際、松川の作品の表面の向こうには、もうひとつの表面が潜み、表側の存在を脅かしている。

「わたし」というものは、いくら消そうと思ったところでそう簡単に消えるものでもない。自分というものは、そう易々と沈んでしまうものでもない。とすれば、問題は、流動化されつつもつねに回帰し、安定的であろうとする「わたし」を、本当の私だと信じてしまうことの危うさのほうにあるだろう。「わたし」の欠落を埋め合わせるかのように回帰してくるまた別の「わたし」は、いったい何者なのか、とむしろ問わなければならいないのだ。

アーティストトーク 9月3日(土)16時~17時

メディア

スケジュール

2011年09月03日 ~ 2011年10月08日

アーティスト

松川はり川北ゆう

Facebook

Reviews

All content on this site is © their respective owner(s).
Tokyo Art Beat (2004 - 2017) - About - Contact - Privacy - Terms of Use