田中良太 + 永井祐 + 真部知胤 「わたしたちのそういう時間」
実家 JIKKA
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私はある時期、一度クリアしたロールプレイングゲーム(RPG)のレベル上げを日課としていたことがある。上げてどうなるわけでもないし、プレイすること自体に快楽があったわけでもないのに、なんとなくずっとやっていた。唐突だけど、坐禅と、このRPGにおけるクリア後のレベル上げは似ていないか。というのはこういうことだ。
禅宗のひとつである曹洞宗では坐禅を悟りの手段ではなく、坐禅を組むその姿自体が悟りであると考える。これは、ただ坐るという具体的な行為をどこまでも重視し、「~のため」といった合目的性の否定を意味する。手まり法師とも呼ばれた江戸時代の禅僧良寛が、まりつきを仏の教えの体現であるとした理由も、この点において理解できる。つまり坐禅の本質は「無為」にある。
とすれば、本当は別にまりつきじゃなくてもよくて、そこにサッカーボールがあればリフティングだったかもしれないし、テトリスのゲームウォッチがあれば、ずっとテトリスやってたんじゃないか。で、クリア後のレベル上げだって「無為」ということでは全然負けてないと思うのだ。これらの行為の特徴を上げると、単純な行為(の繰り返し)/カタルシスがないあるいは薄い/終わりがない、などになるがそうした時間はほとんど私の日常そのものだったりする。
本展はそうした日常を(たぶん)共有する三人の作家によって構成される。無為な日常はそれぞれの表現に何をもたらしたか。
永井の卑小ともいえる出来事や光景を即物的に描写した短歌からは、詠まれた内容自体があまりに些細であるが故に、何事もない日々と只管に向き合おうとする作者の意志が際立つ。田中は、いくつかの記号的なイメージを脈絡なく何度も繰り返し描くことで、絵を描くということが意味や目的に回収されることを拒む。そうした姿勢や態度に私は共感を覚える。
本展覧会キュレーション
真部知胤