収蔵品展062 相笠昌義「日常生活|相笠昌義のまなざし」展

東京オペラシティ アートギャラリー

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相笠昌義が初めて「日常生活」と題する作品を手掛けたのは1960年代のことで、以来50年以上にわたって飽くことなく日常生活を描き続けています。都会の公園、駅、交差点 ─ 人々が集い、やがて去って行く、そんなありふれた光景、というよりも、私たちが「ありふれている」と気付くことすらない光景に、なぜ相笠は着目し、執心するのでしょう。日本橋生まれの御徒町育ち、生粋の都会っ子だった相笠は、中学生の時に初めて手掛けたという油絵《縞布の静物》に見られるとおり、早熟な画才を示す少年でした。しかし、意気込んで受けた東京藝術大学の入学試験には失敗、その夜のうちに失意の自身を直視した《18歳の自画像》を描くところを見ても、この頃からものごとを都合良く見て、忘れることのできる性分ではなかったようです。二度目の挑戦で入学を果たしたものの、大学院進学を賭けた卒業制作、その後応募したいくつかの公募展において満足な評価を得られなかった相笠は、タブローの制作を中断し、コラージュと版画によるモノクロームの連作〈文明嫌悪症〉を手掛けるようになります。社会への愛憎半ばする感情を包み隠さず表したこのシリーズは、現在の相笠作品にも共通する、自分自身を含めた人間という存在そのものに対する徹底した観察が、もっとも生々しくあらわれた作品といえるでしょう。

1970年にようやく油彩画の制作を再開した相笠は、私たちが「自明のこと」として敢えて考えることすらしない、日常のなかの実は不可思議なさまを描くようになります。たとえば、駅で電車を待つ人たち。数分後には電車がやってきて、向かいのホームの人々はほうきで掃かれたようにいなくなってしまう。車内で隣り合う人も、たまたま居合わせた他人同士で、ある時間と場所を共有しながら、それぞれが互いの存在すら意識しないまま去って行く。高密度な社会でありながら、人間同士の関係が希薄な現代生活の一断面は、相笠の眼には奇妙この上ない光景に映るのです。生活者の一員として日ごろこのような状況の一部となっているにもかかわらず、そのことに無自覚な私たち鑑賞者は、相笠の作品を前にして初めて自らを客観視するのです。

観察者としての相笠の視点は〈動物園にて〉においてもっとも顕著です。動物とそれを見る人を描いたこれらの作品では、「見る人」が相笠の観察の対象として「見られて」もいます。駅にしろ動物園にしろ、人々が無意識に行動するさまを観察するという行為は、「他人様をじろじろと見てはいけません」と諭された子供時代を思うと褒められたものではないかもしれません。実際、相笠の観察とは、なによりも好奇心に裏打ちされたもので、それは知的なものではあるかもしれませんが欲望そのものです。見られた上に絵にまでされてしまった私たちは、その画面を見て憤慨してもよいのかもしれません。しかし、相笠の絵に、私たちは多少の決まり悪さを感じることはあっても、不思議と嫌悪をもよおされるようなことはありません。その理由はいくつかあるでしょう。まず、相笠のまなざしが向けられるのは社会における人間のありのままの生態であり、多少のシニシズムはあっても、そこには人への純粋な興味と愛着が見て取れることです。相笠が昆虫標本の収集家であることはつとに知られていますが、世界中の甲虫を採集し、その土地ごとに異なる、あるいはそれでも共通する形や習性を愛でてやまない相笠のまなざしは、人間に対しても同様に注がれています。さらに、そのまなざしはそれぞれの人の個人的な背景に踏み込みはしません。同じく都会風景を描いたアメリカの画家エドワード・ホッパーの、それぞれに物語を醸す人物の描き方と異なり、相笠が描くのはあくまで種属としての人間なのです。じっと見つつも、一線を越えない相笠の姿勢は、むやみな感傷を誘うことなく、私たちを相笠と同じ中立的な鑑賞者として招きます。知られざる自らの一面を垣間見せてくれるその画面に曰く言いがたい魅力を感じるのは、私たちが自身を含む人間という存在へのまなざしを相笠と共有する時なのでしょう。

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スケジュール

2018年04月14日 ~ 2018年06月24日
金曜日・土曜日は11:00 〜20:00、いずれも最終入場は閉館30分前まで

アーティスト

相笠昌義

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