公開日:2007年6月18日

京子 「とりやまおんな」

12月3日土曜日、川口美穂・鶴見幸代・横谷奈歩の三人のアーティストによるユニット「京子」の作品(DMにもあるとおり、60?70年代風にいえば「ハプニング」に近いだろう)を、横浜の北仲WHITEで目撃した。それについて語る前に、まず会場となった北仲WHITEとその隣にある北仲BRICKについて説明しよう。

HPにもあるとおり(左の写真もHPより拝借)、これらは「横浜の北仲通北地区で昨年までオフィスとして活用されていた2棟の建物」で、「その中にアーティスト、建築家、デザイナー、ジャーナリスト等文化芸術活動に関連するグループ約50組が入居し」、「再開発が実施されるまでの1年半の間個々の活動を展開して」いる(詳述しないが、BankARTやトリエンナーレも含めて、横浜における美術のまさにオルタナティヴな展開は称賛に値すると思う)。12月18日までこの2棟ではオープンスタジオ展「北仲OPEN!」が開催されており、今回の京子による「ハプニング」が行われた/行われるのも、その会期中の4日間(3日、4日、17日、18日)である。

北仲WHITEに入館後、まずDMで「会場」と指定されていた108号室の扉のガラスを覗き込んで目を疑った。そこにいたのが巨大な「鳥」だったからだ。いや、「鳥人間」という表現が適切か。胴体や手足の形状は人間のようだが、手先は小さな翼のようであり、足先の位置からは鳥の細い足が生えていて、鋭い爪を露にしている。そして何より、人間の頭の位置はキジの胸から上の部分に取って代わられおり、その先っぽに小さなキジの顔があるのだ。それが、108号室の三畳ほどのスペースで、わずかに腕(翼)を羽ばたかせたり、ゆっくりと歩き回ったり止まったり、首を動かしたりしている。部屋には鍵がかけられている。僕たちは中に入ることを許されておらず、「鳥人間」は外に出ることを許されていないようだ。

しばらく観察したあと108号室を離れ、他のスタジオでの展示も見つつ、ビル内を回った。その途中で、あたりを見回しながらゆっくり歩く、鳥かごを手に持った女性に気がついた。鳥かごの入口は開いており、中には抜け落ちた羽や餌入れのようなものが散乱している。どうやら飼われていた鳥がいなくなってしまったということのようだ。途中何度もすれ違ったことから察するに、女性はビルの中を1階から4階まで行ったり来たりしながら、いつ果てるともなくひたすら探しまわっているらしい。ひとつ不思議なのは、本当に鳥かごから鳥がいなくなったのだとすれば、ビルの窓や出入り口から空へと飛び立ったと予想するのが最も自然だと思えるのに、女性は「ビルの外」を意識すらしていないように見えるということだ。

ビル内を回っている奇妙な人間はこの女性だけではない。もうひとり、ビルの中だというのに登山者のような重装備をした長身の女性が、小さなものからキャンバスで言えば10号か15号くらいのものまで、いくつかのパネルを手に歩き、所々で止まっては、その絵らしきものを壁に立て掛けたり、戸棚の上に置いたり、少し離れて見栄えをチェックしたりしている。彼女が去ったあと画面に近づいてみると、そこに描かれているのは鳥(の影?)だった。廊下を歩く人々はそこに無造作に置かれた絵にほとんど気づくこともない。しばらくすると彼女はまた同じ場所に現れ、そそくさと絵を片付けて、再び去っていく。彼女もまた、ビル内の至る所でこの行為を繰り返しているようだ。

この「鳥人間」と「女性」と「登山者」が繰り広げる一連の出来事が、今回の京子の「作品」だと思われる。ここには、<鳥>にまつわるなんらかの物語が隠されているかに見える。僕たちはほとんど本能的に、それを読み取って再構築しようとしてしまう。だが何度読解を試みても、物語は成立し損ない続ける(あるいは、<鳥>のイメージは固定されることなくひたすらズラされていく、とも言えるだろう)。たとえば、「女性」が探している鳥は「登山者」によって絵の中に封印されたのかも知れない。そして「女性」が歩いた後ろに鳥(の絵)は放され、ふたたび「女性」がそこを通る寸前に「登山者」によって移動させられているのかも知れない。永遠のイタチゴッコ。どんなに求めても、恋い焦がれても、失われた愛は戻らない。こんなに近いのに、決して再び邂逅することはない…とかなんとか。だがだとすれば、あの不気味な、そしてどこか間の抜けた巨大な「鳥人間」は何なのだ? そして何より、なぜ「登山者」はこんなビルの中を「登山」しているのだ?
このように、三者のどれを起点に物語を紐解こうとしも、必ずどこかにほころびが見出される。二者の関係性の辻褄が合ったとしても、残る一者を加えると途端に破綻する。ここでは、「物語の宙づり」が志向されているのだ。二項関係はその原理的な対立性から、固定されたアウトプット(たとえば「肯定」や「否定」)を生成するが、三項関係はどこを起点にしようと「二項関係+外部性」という構造を成すので、そこでは「宙づり」という不定の事態が生成し得るのである。それは、見方を変えれば、個性あふれる三人のアーティストそれぞれがズレながら絡み合う、非調和的な破綻したコラボレーション(つまりは通常の意味におけるコラボレーションではない)の必然的な??そして幸福な??結果なのかも知れない。

ところで、「物語的必然」が(意図的に)退けられているとすれば、この行為が「作品」として成立していることを担保する必然性(あるいは不可分性)とは何か。おそらくそれは「形式的必然」だろう(この点については前回の僕の記事も参照していただきたい)。「北仲OPEN!」展の他の作品/展覧会がそれぞれのスタジオ内で展開されているのに対して、この作品はビル全体を舞台としている。実際に京子に割り当てられた会場は108号室だけなのに、だ。つまり見方を変えれば、「108号室という個室とビル全体とを有機的に(不可分に)絡み合わせつつ、いかにして『作品』を成立させることが可能なのか」という形式的な問いに対する解答として、「鳥人間」「女性」「登山者」を要素とする内容が決定されていると見ることも出来る。だとすれば、そこで物語が成立してはならないのは当然だ。もし成立してしまえば、内容が形式を押しのけて前景化してきてしまうからである。そして、個室とビル全体との関係性こそがこの作品の核なのだとすれば、「鳥人間」が閉じ込められていることも、「女性」や「登山者」がビルの外に出ようとしないことも、納得がいく。形式とは、原理的に輪郭を持ち、閉じられたものだからだ(もちろん世界全体をその要素とする作品もありえるが、各論的には開放系であっても、この世界あるいは宇宙全体は究極的には閉鎖系である)。もちろんこうした僕の形式的読解すらも、開け放たれた(閉じられていない)鳥かごによって「それも物語に過ぎない」と指摘され、骨抜きにされてしまうのだが。

…などと、かな?り入り乱れた長文(乱筆お許しいただきたい)になってしまったが、何はともあれ、17日と18日にも京子による「ハプニング」を目撃することができるので、BankARTや横浜トリエンナーレともども、足を運んでみてほしい。そして、ビル全体で展開する<鳥>の(破綻した)物語を空間的に体感してみよう。いろいろカタいことを書いた(気がする)けど、純粋に楽しめるものだと思うから。

展覧会の詳細

Yuki Okumura

Yuki Okumura

アーティスト。 1978年生まれ。美術作家として国内外で活動する傍ら、「BT」誌にて展覧会レビュー欄を一年間担当、Hiromi Yoshii Fiveにて「The World is Mine」展を企画するなど、美術に対して多角的なアプローチを展開。ACCの助成により、2006年3月から半年間NYのLocation Oneに滞在予定。 <a href="http://plaza.rakuten.co.jp/okumokum/">Personal Page</a>