パウル・クレー展 -線と色彩-

東京駅で電車を乗り換える際に、少し時間を割いて立ち寄るのにはちょうどよい展覧会である。スイスの首都ベルンのパウル・クレー・センターの開館を記念して、60点あまりの同センター所蔵のクレー作品が展示されている。水彩と素描が中心だが、そのことによって物足りなさを感じさせないのは、クレーならではであろう。

poster for Paul Klee Exhibition

パウル・クレー展

にある
大丸ミュージアム・東京にて
このイベントは終了しました。

1人がこれを見たいと思っています。

出品作は、1879年に生まれ1940年に没したクレーの、20代から晩年に至るまでの幅広い時期に及ぶ。私が見落としているだけかもしれないけれど、特にこれといったコンテクストの下に組み立てられているという印象はない。(ちなみに、副題は「線と色彩」である。この副題が何かを積極的に意味しているとも思えない)

けれど、そういう弱いメッセージとともに並べられたクレーの作品は、逆説的にも強い志向性を帯びている。デパート美術館らしい低い天井や布張りの壁面を持つ薄暗い展示室内で、それらはきわめてアンティームな(親密な)ものとなり、絵画のマチエールに対する驚くべきこだわりも、クレーの内向性の象徴であるかのようだ。クレーの孤独な一人遊び、とでも言おうか。しかし、一人遊び的な要素は、あくまでクレーのひとつの側面でしかない。彼の心の片隅にはいつも、表現の普遍性を求めてやまない気持ちがあったはずだし、「線と色彩」はそのためのいわば共通言語なのである。

クレーの作品が時に醸し出す、過剰なまでの、しかし決して拒むことのできない親密さは、現代美術に通じる問題を提起していると思う。というのも、表現の親密さは、現代の(特に日本の)少なくない数の作家にとってのライトモチーフとなっていると見受けられるからである。そして、彼ら/彼女らの作品に親密さを与えているのは、主題でも技法でもなく、念入りに調整されたマチエールの力であることが多い。それが絵であろうが彫刻であろうが、作品に与えられた精妙な質感は、何かそれが非常に「かけがえのないもの」であるかのような印象を与える。と同時に、その「かけがえのなさ」が作品の「担保」として機能しているような気がして苦々しく感じる時もある。クレーはなぜこれほどまで作品のマチエールに固執したのだろうか。その意味を今、改めて考えることは、決して無駄ではあるまい。

Yoshiaki Kai

Yoshiaki Kai. Would-be art critic. 1981年、東京生まれ。 ≫ 他の記事

コメント

  1. いま、ここにいる。
    2006-07-09

    パウル・クレー展@川村記念美術館

    5月にもニューヨークのノイエ・ギャラリーでPaul Klee展を見てきたばかりだ

TABlogについて

東京のクリエイティブシーンに関するあらゆるディスカッションを活性化させるために、TABlogライター、 ビデオレポーターが展覧会レビュー、特集記事、インタビューなどをお届けしています。

Tシャツ・ショップ

TABlogのそれぞれの記事は著者個人の文責によるものであり、その雇用主、Tokyo Art Beat、NPO法人GADAGOの見解、意向を示すものではありません。

All content on this site is © their respective owner(s).
Tokyo Art Beat (2004 - 2007) - About - Contact - Privacy - Terms of Use