転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術
清澄、お台場エリアにある
東京都現代美術館にて
このイベントは終了しました。 - (2006-01-21 - 2006-03-26)
121人がこれを見たいと思っています。
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「表現」というのは、万人に等しく与えられたものなのであろうか。もしそうだとしたら、なぜ私はこの展覧会にある種の「病」を読み取ってしまうのか。展覧会全体に漂う、妙に「明るい」「清潔な」雰囲気。クリシュトフ・キンテラの「トークマン」や「もううんざり」は、「小さきもの」の微妙な動きとしゃべりで、観る者を困惑させつつ愉快な気持ちにさせる。イロナ・ネーメトの「個人婦人科診療所」は、苔を使用している割に、あまり汚さを感じさせない。しかし、この明るさも清潔さも、作者自身の強迫観念から生まれたものではないように感じられる。これらの作品からは、作家の熱っぽさが全く伝わってこないのである。それはなぜか。それは、彼ら(中東欧の芸術家)に「表現」が与えられていないからである。いや、これだと語弊があるかもしれない。より正確に言うならば、彼らは、自由な表現というものから引き離されてしまっているのである。つまり、中東欧の彼らは、西欧(+米)の芸術家が行なった表現の「残り」を開拓するしか他にないのである。表現する喜びというよりも、未だになされていない表現を探す虚しさが目に付く。「明るさ」と「清潔さ」に隠されてはいるが。
そのことをあけすけに示しているのが、アゾロの「全てやられてしまったⅠ、Ⅱ」という映像作品である。それは、中東欧出身の数名の芸術家が、まだ誰もやったことのない表現を探している絶望的な光景を延々と映したものである。「誰」に、全てやられてしまったのか。それは当然、西欧(+米)の芸術家である。アゾロの作品は、そのことを明示しないが、それ故にいかに深刻であるかが伝わってくる。
こうした絶望的な状況の中で、アルトゥール・ジミェフスキの「我らの歌集」と「歌のレッスンⅠ」は、自身が立っている位置を再確認しているように思われる。その確認作業は、慎重になされねばならない。「表現」を自らの手に勝ち取るために。

SH
2006-07-14
クリシュトフ・キンテラをリサーチしていてたどり着き、下の文を読んでそれは東欧のアーティストにあまりに失礼だと感じ書き込みます。
>より正確に言うならば、彼らは、自由な表現というものから引き離されてしまっているのである。つまり、中東欧の彼らは、西欧(+米)の芸術家が行なった表現の「残り」を開拓するしか他にないのである。
完全な表現の自由が手に入る前までもチェコでは人形劇で独自の世界を展開していました。今、東欧の人たちは手元にある表現手段を使って急激に変わっていく社会の中で提言したいこと、提言せずにはいられないこと、やりたいことを素直に表現していると思いますよ。表現メディアは西欧に似通っているものになるのは現代社会では共通の事象。コンテンツに関してはこんなに切実でストレートなものはないと私は転換期の作法を見て思いました。東欧らしさが前面に出ていないところが東欧らしいです。戦略的にアーティストになろうとニッチを狙って作品をつくっているのは日本の人たちではないかと思いますね。実際東欧のアートはアツいですよ。ポーランドでは今もめてますが現代アートの美術館の設計コンペがあります。ワルシャワのギャラリーのラスターのHPでも見てみてください。断定的な物言いをするときはもっとものを見てからにしてください。