公開日:2007年6月18日

MOTアニュアル2007 「等身大の約束」

ちょっとした日常に高度情報化は入り込み、私達のコミュニケーションを簡略化し短縮化させています。これは一方、本来、持ち得た人との関係性を希薄なものへと変化させてしまっていると言えるのではないでしょうか。

ちょっとした日常に高度情報化は入り込み、私達のコミュニケーションを簡略化し短縮化させています。これは一方、本来、持ち得た人との関係性を希薄なものへと変化させてしまっていると言えるのではないでしょうか。現代を反映したテーマを設定し、様々な視点から若手作家を紹介するグループ展「MOTアニュアル」第8回目となる今回は「等身大の約束」がテーマとなっています。

距離や時間に関係なく交信できるようになった高度情報化社会へ違和感を覚え、知覚や認識への危うさを露呈し、自己存在や社会への関係性をそれぞれに表現した5名の作家、秋山さやか、加藤泉、しばたゆり、千葉奈穂子、中山ダイスケの作品が紹介されています。

秋山さやかは「歩く」という行為を通して、そこで感じた事、出会った人、出来事など、場所との感覚や記憶を、布や紙にカラフルな糸で縫って表現しています。地図というジオメタリックな情報をフローな感情や記憶で表現する、ある種のオートマティスム的、即興的な作品です。意図せず出来た作品には、恐らく作家の意識を超え、動き出していく作品の力を感じるのではないでしょうか。

加藤泉の作品に描かれる「不思議な生き物」は、私達に強烈な何か意志を伝えてくるように思われます。言葉を発せるわけではない、でも、そこには明らかな自意識や自立心が芽生えた幼児のように「生き物」はそこに佇むだけで「存在」という主張をしてきます。作品と対峙した時、それは生命力を感じさせ、今そこにある以前に、随分と前からあるような、また未来にも変わらずあるような、強い存在感で私達を見つめてくるのです。

しばたゆりはモチーフを粉砕し顔料にした『MATERIAL PICTURE』や、時間と場所の中で生まれた埃を顔料とした『DUST PRINT』などを制作し、自己と物(他者)のあり方、また自己と空間や時間の関係性を探っているように思われます。物や空間への精密な調査ともいえる作品は、愛おしむような感情と共に何か深い執着のような感情が垣間見え、過去への捕われの時間を感じさせられます。それは昇華した記憶というものなのでしょうか。

千葉菜穂子は和紙に写真を青く焼き付けた独特の手法で表現しています。きめの荒い写真は平穏な日常に何かアクシデンタルな事情があったようなレイアウトがされています。

それは作家の記憶の断片を繋ぎ合わせる作業のようにも思われ、私達には郷愁の日本家屋に迷い込んだような実体験が残ります。他者の記憶や体験にも関わらず、自分にリンクしてしまう感覚をもつのは、そこに私達が潜在的にもつ幻影風景があるからなのかもしれません。

数字が無数に描かれた中山ダイスケのペインティングは、数字の波に飲み込まれそうな、埋もれてしまいそうな社会で、必死に生きる些細な生命を表現しています。最小限の情報で最大限の情報を示す、その感情の含まれない「数字」という情報は、この先、私達に何をもたらすのでしょうか。人種、性別、年齢、性格、記憶、経験、全てが、数字という情報で私達を現せるという時代は、個性が消滅し、また創造がなくなる時代と言えるのかもしれません。それでも『visitor』に描かれる極彩色の小鳥は、その色を放って個の存在を示し続けていくのでしょう。

Kumiko Odaka

Kumiko Odaka

Freelance writer フリーライター(VERY Style Guide correspondent) 美術作品と対峙する時、視覚以外の感覚が呼び起こされるのを覚える。作品は刺激を与え、知らない世界を教え、私の心に体に潤っていく。必要なサプリメントはアート、美容に長寿にいい!と、私は信じてます。