公開日:2009年5月13日

光の扱い方 — かしふかし — 小泉信司「アナモルフ / 空蝉 / バロック」展 関連イベント

不可視の視覚

小泉伸司 《リバースショット》
小泉伸司 《リバースショット》
2009年の3月7日の土曜日、台東区にある長応院という名の寺院で映像上映イベントが行われるということで行くことにした。タイトルは「光の扱い方―かしふかし―」という非常に魅力的なもの。長応院は浄土宗の寺で、民家を思わせる小ぶりな建物だが、敷地内に茶室を思わせる白い小さなギャラリー「空蓮房」を有する。これは、アートに精通し自身もアメリカで写真を学んだという住職の谷口昌良氏が建てられたものだ。

法話の様子
法話の様子
「空蓮房」で展覧会が開かれる期間は、長応院内の本堂を用いていくつかのイベントがあわせて開催される。今回のイベントは小泉伸司の展示「アナモルフ/空蝉/バロック」展に合わせ開催された。

本堂では本尊の前に三面スクリーンが設置され、集まった人々が見守るなか、谷口氏の進行でプログラムが始まった。まずは鎌倉からやってきたという和尚さんによる光の法話が始まる。プログラムをあらかじめ見てはいたものの、映像メインと思い来場した私は少し驚いてしまった。この説法が意外とボリュームがあったのだ(40分ほどあった)。

漆のような質感の説法台でゲストの和尚さんが話した内容は、前編が仏教の開祖シッダールタが悟りを得るまでの話。手塚治虫の漫画や伝記などで子供のころに慣れ親しんだ逸話がテンポよい語り口で再現されて面白い。

悟りを開いたブッダの教義は光によくたとえられるということ、そして、仏教やサンスクリット文化における光を表す言葉は、照らされたその場所のベールをはぎとる、よく見えるようにする、という意味であることなど、後半の話のクライマックスを経て、神秘的な雰囲気が漂う中、いよいよ映像作品が上映された。

中村綾緒 《夜の魔法》
中村綾緒 《夜の魔法》
最初に現れたのは夜の風景を撮ったと思しき写真のスライドショー。中村綾緒の《夜の魔法》だ。道を往来する人の姿や、月、ライトアップされた木々や建物がうかがえる。ただしどれもぶれたりぼやけたり、物体は移動した軌跡に合わせて長く光の帯をたなびかせている。音声はなく、無音の静寂を淡々と写真は切り取っていく。空、空、人物、空、建物……といった風に。一見とりとめのない、しかし幽玄な雰囲気がスクリーンの上に繰り出されていく。

最初はブレだったりボケだったりした図像が、最終的には具体的なイメージを脱ぎ捨てて限りなく抽象に近い透明感のある光の帯になっていく。長時間の露出によってじわじわと浮き上がってくるイメージは、まるで香の煙のように形なくあやふやでおぼろげだ。形あるものが、結束を解かれどんどん漆黒の闇の中にほどけていってしまうような感覚。子供のころに抱いた漠然とした不安や空想を想起させる作品だ。

2つ目の作品はカトウチカの映像《Between》。ボートに乗りオールを手にした女性が一人、なめらかに揺れる湖面を見つめている。ため息が出るほど心地よい水面の光の揺らめき。夜明けとも夕暮れともつかない白っぽい空に、全体的に透き通った、しかし暗い水色のイメージ。ボートを漕ぎ、ある地点に到達する女性。やがて視点は転がりこむように湖中に沈みこむ。微振動する泡か光の反射かもわからないものが目の前をどんどん通り過ぎていく。

カトウチカ 《Between》
カトウチカ 《Between》
特に印象的なのは音楽で、それは私には雅楽に用いる笙の音に聞こえた。緩急をつけて弱から強に変化する圧力や距離を超えてどこまでも届いていきそうな波長は、水のようにも冬のまっすぐな風のようにも例えられるだろう。水中では光は異なった現れをするらしい。自分の体が喪失したような浮遊感が訪れ、大気とはちがう、粘り強く密度の濃い空間が、心のいたるところに潜む空隙にしっとりと流れ込む感覚。イニシイエーションのように、自己の内部に潜り込んでいくことで、瑣末な事柄がすっかり洗い流されてしまうような、冷やかで清らかな作品だ。

最後に現れた映像は、小泉伸司の三面スクリーンを用いた映像《リバースショット》。ガラスの細かな傷や曇りに乱反射する光の粒子に焦点を当てたと思しき映像が繰り広げられる中央のスクリーンには、時々正反対の意味を対で表すアルファベットが浮かぶ。”生と死”や、”喜びと悲しみ”などだ。左右のスクリーンではぼんやりとした光の塊が動き出す。暗視カメラやサーモグラフィの映像のような、独特のざらつきが混じる画像だ。やがてくぐもった女性の声が左側から聞こえてくる。なんとなく昔の日本映画のワンシーンのようだ。女性のモノローグが収束すると、今度は右側から男性の声が聞こえてくる。ラジオで電波を拾っているようで、言葉はよく聞き取れないが、日本語であることは確かだ。音声の応酬は時間を経るごとに激しくなり、左右の音声とスクリーンの明滅が混然一体となったところで映像は終わる。

スクリーンの画面はまるで誰かの脳の中をジャックしたかのような、いくつものフィルターをとおして現れるイメージだ。小さな光のスパークは脳内のシナプスを伝う情報のようで、いくつもの思考のひらめきが光として知覚される。それらは一瞬で終わることもあれば、時折人物のイメージへと収斂していくこともある。自己というフィルタを通した対象のイメージへと。
それは主体の中で生成されるオブジェクトへのオマージュだろうか。男と女の声は常にモノローグとして現れ、相互的な関係を結ぶことはない。同じ時間、同じ空間を共有していながら絶対的な隔たりにおかれる二人の人物。

小泉伸司 《リバースショット》
小泉伸司 《リバースショット》
ちなみに、映像作品の合間に幕間として谷口氏が朗読していたものがあって、それは仏教の高僧ナーガルジュナ(竜樹)による「中論」という論文だ。視覚、見ることについての論考は一聞しただけでは到底深い理解には至れないようなものだが、視覚や主観のあいまいさを指摘する内容のようだったと思う。不思議と三つの映像作品にマッチして親しみやすい印象を覚えた。

中論に関しては後日一読する機会があった。人間は五つの感覚器を持ち、それに対して五つの刺激が考えうる。目には色や光、耳には音という風に。ただし、そこで知覚する世界は自己がその五つのセンサーしかもっていないからこその像であり、決して人は世界の実態を知覚しているわけではない。「視覚」は独立して存在しているものではなく、「私」がものを見ようとする限界の地平に過ぎない。私はそんな解釈を受け取った。

おそらく主客の関係もまた同様で、主客は知覚やコミュニケーションを軸とする対象の関係性ではなく、もっととてもはかなくて独りよがりの出来事なのだ。そう考えると、中村の紡ぎだす夜に溶けていく人々や建物のイメージは、私たちが捉える対象のはかなさを想起するし、水に沈んでいった結果、自分の感覚すら消失しそうになるカトウチカの作品の印象は、対象の概念を失った自己の寄る辺なさと響きあう(けれどカトウチカの作品の場合、水面近くを漂う感覚が描写され、現実の自分と自己を喪失した世界との間をさまよう雰囲気が残されてもいる)。そしてあくまでも冷静に自己と他者との関係性を入れ子式に形式――映像という形式に落とし込もうとする小泉伸司の矛盾をはらんだ試み。

長応院でのイベント風景
長応院でのイベント風景
古代の気の遠くなるような思考実験と、現代の三作品をダイナミックに結び付けたイベント「光の扱い方―かしふかし―」。自己に潜り、知覚を問い直すなかで、私は自身の瑣末な問題から一とき間をとり、思うままに心を遊ばせることができた。少し修業した気分も味わえた。

ここでは仏教やアートといった、単純なインデックスの出会いを超えた、作品同士の純粋なコラボレーションが楽しめたように思う。アートも仏教も、ともに人々が生活の中でつくリ出してきた文化だ。創作することと組み合わせること、二つの自在が絵巻物のように物語性豊かなイベントを作り上げていた。

萬 翔子

萬 翔子

1983年福井県生まれ。女子美術大学研究補助員。 愛知県立芸術大学と多摩美術大学大学院で芸術学を専攻し、シンディ・シャーマンやマリーナ・アブラモヴィッチの作品調査をもとに現代の表現と社会制度との関わりを研究する。