田名網敬一のエキシビジョン「壺中天」がナンヅカアンダーグラウンドで開催中だ。溢れんばかりの色の洪水は、田名網の脳内のユートピアを描いているかのようだ。
壺中天とは、薬売りの老翁が所持する壺の中に入ると、底には別世界のユートピアがあったという後漢書に基づく中国の昔話に由来する。本展は会場自体がまさに壺中天そのものを表すような構成になっており、一歩会場に足を踏み入れると彼特有の色彩に囲まれてしまう。
彼の作品に衝撃を受ける要因は、その色彩の量、アイコンの量に起因するところが大きい。一つの画面に多数存在する色彩は、我々の網膜を通過するとき、光の波長を読み解く能力を最大限に試そうとするかのようだ。それと同時に、画面に描かれた様々なアイコンは、個人の記憶に語りかけようとする。我々の脳は色彩の判断と図形の解釈をよりスピーディーに処理することを必要とされる。画面と対面するとき、脳は色彩を、また一方ではアイコンを、あるいは色彩とアイコンのどちらの要素からも自己のこれまでの経験を検索しようとする。その際、それらがリスク(危険、危機の暗示)として脳に処理されると、ある種のショック状態に陥ってしまうのだ。
「怖いものみたさ」とは、非常に重要な人間の感覚(高次元の好奇心)である。つまり、我々はこの感覚によって、より多くの出来事を経験していくことで、より尺度のある判断を可能にしていくのだ。
人類にこのような感覚の備わりがなければ我々はおそらくもっと早い段階で自然淘汰されていたに違いない。
彼は、常にこのような経験、判断を常に自己に充填し続け、誰よりもどん欲に脳の開拓を続けていく。
そして十分に発酵が進んだイメージの蓄えの中から、一つ一つを大切に選び出し、一滴もこぼすまいと丹念にキャンバスへ出力していくのだ。彼の作品の強度は、このような経験と判断の繰り返しを続ける自己のシステム構築とよりタフな日々のトレーニングから生み出されているのであろう。
目を閉じてもしばらくは網膜に焼き付いている彼の作品は、視覚をより有効に用いて人間のあらゆる感覚を強烈に刺激する。そして、普遍的無意識にまで語りかけるような恐ろしくも美しいインターフェイスなのである。