アートの中のオンナたち —横浜美術館「BODY / PLAY / POLITICS」編—

アートの中における「女性」の表現を考える。

poster for Body / Play / Politics

「BODY / PLAY / POLITICS」展

横浜、神奈川エリアにある
横浜美術館にて
このイベントは終了しました。 - (2016-10-01 - 2016-12-14)

In レビュー by TABインターン 2016-12-10

前回のレビューでは、篠山紀信展を取り上げ「男性の目線の中の女性」について扱った。今回は横浜美術館で開催中の『BODY/PLAY/POLITICS』展より、イー・イラン《ポンティアナックを思いながら: 曇り空でも私の心は晴れ模様》(2016)を中心に、女性の目線から表現された芸術作品について考えてみる。

現代のポンティアナックたち、フェミニズムのイコン

本展には6人の作家による作品が展示されているが、この中で女性作家はイー・イラン(以下イランと記述)ひとりである。彼女はマレーシア出身の芸術家で、東南アジアの文化をテーマにしたアート作品を発表している。作品のタイトルにある「ポンティアナック」は、東南アジアに伝わる幽霊の名前である。ポンティアナックたちは妊娠中に命を落とした女性、あるいは強姦されて犠牲になった女性の霊だとされ、長い髪を振り乱した姿で表される。この幽霊はマレーシアをはじめとする東南アジア諸国で広く信じられており、ポンティアナックが鋭い爪や歯で男性を襲うシチュエーションはホラー映画でもたびたび使用されてきた。

イランの作品は、20代から30代のマレーシア人女性14名が登場する。女性たちはポンティアナックを連想させる乱れた長い髪を垂らして顔を隠しており、個人を特定することはできない。イランは彼女たちを7名ずつの2グループ(1)に分け、台本なしの自由な会話を行う様子を撮影した。画面の中では、ポンティアナックたちのおしゃべりが展開される。
「どうして、私たちは脱毛にお金をかけなくちゃいけないの?」
「妊娠がわかった時、ひどく取り乱した。これからの人生が台無しよ」
「子どもを産んでいなければ、私たちには価値がないの?」
彼女らのあまりにストレートな告白に、鑑賞者は驚いてしまうかもしれない。その内容は正直で飾らない言葉ばかりだ。会話の端々から、彼女たちがどこにでもいる女性であり、告白される思いは同時代を生きる女性たちに共通したありのままのものばかりであることが分かるだろう。
彼女たちの主張に一貫するのは、「女性の身体は女性自身のためにある」ということ。男性の欲望の対象として、まるで「差し出す」かのように自らの身体を消費されること、あるいは子どもや配偶者の有無によって自らの価値を決められる外部の判断に対して、彼女たちは強く反発する。女性らしさは、子どもの有無によって決まるのか?美しく化粧をしているかどうかによって決まるのか?現代のポンティアナックたちは、「女性たるものこうあるべき」という社会通念を押しのけ、女性の身体に特別な意味(性的対象としての意味づけや、結婚や妊娠といった経験の強制)を持たせることを放棄しているかのようである。女性の身体に特別な意味づけがされるとすれば、その理由は彼女が「女性だから」ではない。彼女が「彼女だから」、他に代替がきかない唯一の身体としての彼女だからだろう。

ポンティアナックたちの服装、実はとてもカジュアル

ありきたりな「女性の主張」?

…と、ここまでこの記事を読んでウンザリしているアート通の読者もいるかもしれない。男性によって抑圧された女性の身体を開放しようというアートの潮流は、特に現代美術史の中で継続的にみられてきたものからだ。そんな解説はもう読み飽きた、もう分かっているからこれ以上ばつの悪い思いをさせないでくれ、と思っている男性読者もいるかもしれない。あるいは、過激な表現で物議を醸した女性アーティストの作品を想起する読者もあるだろう。しかし、イランの作品はこれまでに生まれてきたアートの筋書きをなぞっているだけではない。このことを説明するために、横浜美術館内の写真展示室に展示されているシンディ・シャーマンの《無題のフィルム・スティル No.23》(1978)を考えてみる。

《無題のフィルム・スティル No.23》(1978)の中で、シャーマンはブロンドの女性に扮して写真に収まっている。その姿は往年の映画女優のようで、誰もがどこかで見たことのある「女性らしい」イメージを実現しているといえよう。しかし、シャーマンの作品の中で表現されるのは、「イメージとしての『女らしさ』が形成されている過程」(2)なのだ。美しく理想的な容姿を持つ娯楽映画の中の女性たちは、男性に従順な性格に描かれ、自分勝手な性的暴行の対象になりさえする。しかし、鑑賞者はその残酷さを無意識のうちに受け入れ、求めさえしているのだ。彼女たちが女性らしく装われた身体、映画や広告の中で繰り返し表現されてきたステレオタイプな女性のイメージをあぶりだすシャーマンの作品は、男性的な視点で短絡的に描かれてきた「女性らしさ」の存在を鋭く指摘する。シャーマンの作品をその文脈で語るかどうかは議論の余地を残すところだが、このように社会における女性の役割を考えるアートはフェミニズム・アートと呼ばれ、現代芸術の表現に一石を投じた(3)。フェミニズム・アートは20世紀後半に拡大し、その中ではさまざまな手法で既存の男女の関係を考える芸術作品が生まれてきた。これらの作品には従来の男性中心的な権力にアンチテーゼを掲げるものが少なくない(4)。

イランの作品に登場するポンティアナックたち。

あけっぴろげなフェミニズム・アート、新しい「政治」

しかし、イランの作品は単に男女の不平等な関係を断罪したり、男性に対する敵意を強調しているわけではない。私はこの作品の最大の特徴は、女性であることの「よろこび」を表現している点にあると考える。
彼女たちは男性に対する敵意や社会通念に対する反発心だけを語っているのではない。確かに社会的な抑圧、男女の主従関係に対する反発心をあらわにしている部分もある。しかし、この映像を通して印象的なのは彼女たちの笑い声なのだ。例えば、自らの身体について彼女たちはこう語る。
「生理だからってセックスを拒んだら、彼がひどく機嫌を悪くするの!」
「昔、自分の女性器が怖かった。誰も教えてくれない、口に出さないから」
「じゃあみんなで10回言いましょうよ!」
ここで、7人全員が女性器の名前を口に出し、まるで呪文のように女性器の名前を繰り返す。それは生々しい嫌悪感やエロティシズムに支配されたものではない。彼女たちの会話の端々には明るい笑い声があふれ、あっけらかんとした大胆なおかしみに満ちているのだ。
作品に登場する女性たちは確かに、女性であることに起因するある種の「生きづらさ」を感じている。しかし、その生きづらさは決してネガティブな意味だけで捉えられるものではないのだ。この作品が最も優れている点は、女性が女性であることを受け入れ、肯定する様子が描きだされていることにある。現代のポンティアナックたちは、女性であることに誇りを持つとともにありのままの身体を受け入れているのだ。あけっぴろげともいえる肯定感は、現代社会をたくましく生きる女性たちそれぞれを勇気づけることだろう。

今回の展覧会タイトル「BODY/PLAY/POLITICS」は、1960年代以降のフェミニズム運動におけるスローガン「The personal is political(個人的なことは政治的なこと)」を思い起こさせる。このスローガンが意味するのは、個人の問題であるとみなされてきた女性を取り巻く出来事―それは化粧など装いの強制であったり、性暴力の被害であったり、家事労働の負担であったりする―が、社会構造の中にあるジェンダー観によって生まれてきたものであるということだ。フェミニスト・アーティストたちの多くが少なからずこういった考え方に影響され、女性に関するさまざまな状況を問題化してきた。この展覧会のタイトルにある「POLITICS」は、経済や外交といった要素だけを示すものではない。人間が他者を動かす行為、あるいは社会の秩序やあり方を共同して考える行為といった広い意味での「政治性」が、この展覧会には息づいている。イランの作品がわれわれに示してくれるのは、従来の男性中心社会に対する問題提起でもあると同時に、何かを否定するだけではなく肯定し、受容することによって社会のあり方を再考するという「新しい政治」でもあるのだ。

前回のレポートで取材した篠山紀信の作品について、私は「男性の視線の支配下にある女性の姿」であると評価した。快楽の館に集う女性たちが欲望の対象としての客体的な存在であるとすれば、イランの作品に登場する女性たちは自ら語りだす主体的な存在であるといえる。同じ「女性」を対象として選んだ同時代の作品ながら、それぞれが表現する女性像は全く異なっている。これらの作品を比較することで、芸術作品の中で表現される「女性」イメージの多様なあり方を知ることができるだろう。

みなとみらい駅近くにある横浜美術館。

[註]
(1)7名という人数はマレーシアに伝わる宗教儀式におけるしきたりで用いられる人数であり、土着の文化を反映したものだと考えられる。
(2)北原恵「アート・アクティヴィズム」(インパクト出版会、1999、p146)
(3)一般的に、フェミニズムの流れは第一波(20世紀初頭~): 政治参加など女性の独立した権利を求めた運動と第二波(1960年代~): 性差の問題に着目し、男性中心的な社会を女性の視点からも捉えなおそうと試みた運動の二種類に区分される。筆者はフェミニズム・アートが活性化したのは第二波においてであると考えている。ジュディ・シカゴらによるフェミニズム・アート運動は20世紀後半に最も活発になったが、21世紀に入ると異性間に限らない多様な性のあり方に関心が集まり、フェミニズム・アートもその意味を拡大している。
(4)フェミニズム・アートの歴史と具体的な作品については、キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』(長野順子・石田美紀・伊藤政志訳、三元社、2009)、 ヘレナ・レキット『アート&フェミニズム』(鈴木奈々訳、ファイドン、2005)などに詳しい。

[TABインターン] 齋木優城: 神戸大学卒業、東京藝術大学芸術学科美学専攻修士課程在籍。研究テーマは芸術作品における女性の表象について、卒業論文で扱った作家はバルテュス。沖縄生まれ神戸育ち。趣味はジャズダンス、新作の口紅をチェックすること。お酒、コーヒー、スパゲッティが好き。デートに行くなら新宿御苑。

TABインターン

TABインターン. 学生からキャリアのある人まで、TABの理念に触発されて多くの人達が参加しています。3名からなるチームを4ヶ月毎に結成、TABの中核といえる膨大なアート情報を相手に日々奮闘中! 業務の傍ら、「課外活動」として各々のプロジェクトにも取り組んでいます。そのほんの一部を、TABlogでも発信していきます。 ≫ 他の記事

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