レビュー
本の仕立て屋さん -装丁を見る愉しさ、触れる愉しさ-
私たちは、人生で何冊の本を手に取るだろうか。多くの情報をインターネットなどのデジタルメディアで入手できるようなった現代であるけれども、私たちはなお、膨大な量の書物に囲まれて生活している。
新井啓太 「 」展
絵画における「図」と「地」の関係というのは、一般に考えられているほど自明のものではない。少なくともはじめに「図」があり、それに「地」が付随するという考え方は単なる虚構の域を出ることはない。
「東京-ベルリン/ベルリン-東京」展
「東京−ベルリン/ベルリン−東京展」は、東京とベルリンという2つの都市間で、19世紀末から繰り広げられてきた文化・芸術的交流の軌跡をたどることを意図して開かれた展覧会である。
大久保亞夜子 展「クルテユラ」
2004年に、マンガを用いた卒業制作『奇的』で東京芸術大学を出て注目を浴びた大久保亞夜子。2年ぶりの個展でますますその独自性を発揮している。
レプリカ -真似るは学ぶ- 展
博物館で感心して見入っていた古代の珍しくて美しい物の脇に「レプリカ」というキャプションが添えられているのに気づき、がっかりしたという経験があるのは私だけではあるまい。この「がっかり」は突き詰めて考えてみると不可解な感情ではあるとはいえ、あまり有難いとはいえない「レプリカ(複製)」の存在と意義について、じっくりと考えさせられる興味深い展覧会が、京橋のINAXギャラリーで開かれている。
ザハ・ハディドとめぐるドイツ銀行コレクション「舞い降りた桜」
去年から今年にかけて、「ゲルハルト・リヒター展」、「ドイツ写真の現在」、「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」など、ドイツのアートが数多く紹介されてきた。今回の展覧会がそれらと一線を画するとすれば、それは「現在進行形のドイツアートシーン」を示すものであり、また「企業コレクション」であるという点に集約されるように思われる。
「きっとそこには何かがあって」吉田和貴 展
積み上げられたデジタルプリントとラジオの音声。不可解な位置に床置きされた「U字溝」というシンプルなインスタレーション。展示とは、作品とは、写真とは何なのか思いをめぐらせる。
“77 Million” ブライアン・イーノ 音楽映像インスタレーション展
ブライアン・イーノの音と映像へのアプローチは、日常を説得し、新しい環境へ導く。
小西真奈 展「金華山」
上野の森美術館にて開催中のVOCA展2006にて大賞(VOCA賞)を受賞した小西真奈の個展が銀座で開催されている。
転換期の作法 ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術
告知されている芸術家の名前に、見知ったものが一つもない。中東欧との距離は、これほども離れてしまっているのか。そんなことを自覚せずにはいられない展覧会である。
鈴木心写真展「サテライト」
この展覧会は、第24回写真『ひとつぼ展』グランプリ受賞者である鈴木心の個展である。そのオープニングの席上で、作家の鈴木は、写真が表現できるものとして「形、色、光、出来事」を挙げていたが、私はそれに「歴史性(すなわち、写真史)」を加えたい。
Aランチ:開かれた美術へ
Aランチは2005年3月に,作家と観客の新しい関係性を提示するためにアーティスト鴻池朋子によって第一回が開催された.コンセプトはシンプルだ.今までのギャラリーや美術館における一方向的な展示とは違って,レストランのように客が自身の趣向を基に直接作品を「注文」するシステムを提供したら何が起こるのか?結論から言うと,この画期的な企画は実験に終止する事なく,既に一つのオルタナティブ・メディアとして屹立している.
食と現代美術 part2
昨年に引き続き、横浜のBankART1929にて<食と現代美術 part2-美食同源>が開催されている。今回はよりBankARTらしく、関連イベントや地域を巻き込んだプログラムが充実した内容である。
ジェームス・ウェリング 「New Photographs」
2月25日まで(*3月4日までに会期延長)、初台のワコウ・ワークス・オブ・アートでジェームス・ウェリングの新作展が行われている。彼は、抽象写真から風景写真まで様々な作風を試みてきたと言うが、新作「Flowers」シリーズは植物をモチーフとした美しい色彩のフォトグラムであり、非常に親しみやすい印象を与える。
パウル・クレー展 -線と色彩-
東京駅で電車を乗り換える際に、少し時間を割いて立ち寄るのにはちょうどよい展覧会である。スイスの首都ベルンのパウル・クレー・センターの開館を記念して、60点あまりの同センター所蔵のクレー作品が展示されている。水彩と素描が中心だが、そのことによって物足りなさを感じさせないのは、クレーならではであろう。
山口勝弘展「実験工房」からテアトリーヌまで
この展覧会の、いやより精確に言うならば、山口勝弘の根幹にあるテーマは、人間の眼に対する執拗なまでの問いかけではないだろうか。
フェデリコ・エレーロ展 「ライブ・サーフェイス」
美術館には独特の張りつめた空気がある。図書館の静寂と、歯科医院の緊迫感が混ざったような、なんともいえない空気だ。それがある人にとっての落ち着く空間であっても、私にはいつまでたっても馴染めない。
写真展 岡本太郎の視線
「岡本太郎と写真」、この結びつきは、ほんのつい最近注目され始めたばかりのものである。本展覧会は、その新たな結びつきを非常に丹念に紡ぎ、重厚感のある展覧会としている。岡本太郎の写真に関する言説から、使用したカメラの機種にまで渡って、一つ一つ調べ上げている。単なる作品の展示というよりも、むしろ一つの「研究」発表とでも呼べるものかもしれない。
岡本太郎の視線
画家、彫刻家としての岡本太郎は、第1回シュルレアリスト・パリ展で発表した《傷ましき腕》や大阪万博の《太陽の塔》であまりにも有名であるが、彼はまた世に多くの文章と写真も残している。
Chain reaction #1
筆者企画によるリレー形式の個展<Chain reaction #1>。第二期:亀井紀彦展が1月29日(日)までYOSHIDATE HOUSEにて開催中である。本展は企画者である私が第一期の出展作家・岩野仁美をコーディネートし、第二期の作家は岩野がコーディネートを行った。
オラファー エリアソン 「影の光」
数年前、アートの視点から見た21世紀の変容についてインタビューを受けたエリアソンは、人々の知覚、中でも時間軸に対する感覚の移行をアートが加速させてゆくだろうと予期した上で、時間の経過、あるいはその持続こそが、真の意味での記憶や意識をつくり、本質的な解放となりうるのだと答えた。
『われらの時代』展
「われわれ」ないし「われら」という代名詞は、まさしくそこで言われる「われわれ」とは一体誰のことなのか、という意識を受け手に対し避けがたく提起するがゆえに、それ自体すぐれて行為遂行的(performative)な言辞であることを免れない。
寺田真由美 新作展
昨年末から今年の初めにかけて、相次いで大きな写真展が開かれた。「ドイツ写真の現在」と「杉本博司 時間の終わり」がそれである。この二つの写真展と今回取り上げる「寺田真由美 新作展」には、一つの共通点がある。それは、「模型」である。
杉本博司:時間の終わり
私にとって、昨年最も印象に残った展覧会のひとつであった。杉本の過去の仕事から最新作までが、シリーズごとに丁寧な解説と一緒に展示されており、作品コンセプトはもちろん、杉本が何をしていてどういったことに興味を持っているのか、その作家性がよく見える内容となっている。
われらの時代
先日終了した「横浜トリエンナーレ2005」とは、全く正反対の企画展示である。美術館というきちんとした空間(←→ふ頭の倉庫)でという前提はもちろんあるが、地元の作家を中心としたセレクション(←→国際展)で、ほとんどが絵画・彫刻の枠を大きくは出ない小品・インスタレーションが中心。
マリアの心臓・美少女展覧会
このタイトルを見て、レヴューを読み飛ばさないで欲しい。この展覧会には、名立たる人形作家、画家、漫画家、写真家の作品が一堂に会している。人形作家では、天野可淡、恋月姫、四谷シモンなど。画家では、宇野亜喜良、金子国義など。漫画では、萩尾望都。写真家では、今道子。
Olafur Eliasson 影の光
部屋の前面に広がるオレンジの柔らかな皮膜と、かすかに空間を意識させる空気の流れ。気がつけば私たちは部屋の片隅に座り込み、重ねられたオレンジの心象風景の中に手を伸ばそうとしている。
李禹煥──余白の芸術
1960年代末から70年代前半の現代美術の運動「もの派」の作家として知られる李禹煥の個展が横浜美術館で開催されている。李禹煥の大規模な個展は日本ではおよそ12年ぶり。新作を含めた36点の絵画と彫刻で構成され、90年代以降に制作された作品が中心である。
アニッシュ・カプーア 「JAPANESE MIRRORS」
直径約120cmの漆の器が壁にかかっている。器というより、放物線を描く鏡(Parabolic mirror)だ。黒、紺、浅葱、紫、草の色で、ひとつづつ鏡が作られている。そのなかに、鑑賞者もろとも展示空間が映り込む。
京子 「とりやまおんな」
12月3日土曜日、川口美穂・鶴見幸代・横谷奈歩の三人のアーティストによるユニット「京子」の作品(DMにもあるとおり、60?70年代風にいえば「ハプニング」に近いだろう)を、横浜の北仲WHITEで目撃した。それについて語る前に、まず会場となった北仲WHITEとその隣にある北仲BRICKについて説明しよう。
