Gallery αM高嶋+中川による映像作品を見ると、いつも「カメラ」の存在を、「カメラ」が撮っているということを、強く意識させられる。
近年、映像の使用はアートにおける常套手段となり、もはや誰もが気安く手を出すことのできるメディアになったが、そのことは却って「カメラが何であるか」を、「映像が何であるか」を、「なぜ映像で表現しなければならないのか」を不問にしたともいえる。そこでは何を語るかが主要な関心事であり、カメラは透明なメディウムと化す。おそらく多くの場合。そして私たちはといえば、流れる映像だけでなく、ともするとそれ以上に、そこで話されている言葉、流れる字幕に注意を払うことになる。映像経験とは何だろうか。
比較のために古い例を持ち出すと、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』の衝撃とは、その内容にではなく、肉眼では経験不可能な視覚を「キノ・グラース(カメラの眼)」が明るみにしたことにあった。私たちはカメラの眼に自分の眼を重ね、カメラが私たちの視覚経験を補完し、変容させる。映像の溢れる現在において、私たちはもはや違和やギャップを自覚することさえなくなったが、そのなかにあって高嶋+中川は、あえて「カメラの眼」から問いを先鋭化させる。彼らの映像作品が̶̶彼らの狙いではなかったとしても̶̶、しばしば、肌理というべきテクスチャーや崇高と呼びたくなるような感情を引き起こすとしたら、それはその映像が、私たちの日常的な視覚経験との間に決定的な亀裂を引き起こすからだろう。持続する違和のなかで、私たちはカメラの眼に、身体に、決して同化できい。
カメラはいっそう機械として顕在化しながら、まるで操作する撮影者にも、被写体にも関心を払うことのない、独立した生き物となる。私たちが映像作品として見ているのは、一心不乱に動き回るカメラの眼に映り込んだ荒涼とした世界の姿である。
主体不在の映像。それは私たちの判断をも不問にするのだろうか。