上述は、品川の原美術館で現在開催中の展覧会『Olafur Eliasson 影の光』展のある作品の様子を描いたものだ。この展覧会でのエリアソンの作品は、私たちの視覚をまるで鏡像のように写しだす。最終的には「光源」と「スクリーン」に還元されてしまうほどシンプルな作品の構成、さながら洗練された現代彫刻のようにも見えるその外見。その形象はあまりに美しく、その佇まいは凛とした静寂を伴う。しかしながら、気がつけば私たちは作品としての環境へと溶け込み、「見る」ことへと五感を協働させている。そこには、「見る」私だけが存在し、その身体性は後景へと追いやられてしまうのである。
そこで、ふと頭をよぎる疑問。そう、「エリアソンの作品は『クールなメディア』なのではないか?」と。「クールなメディア」とは、20世紀のメディア研究家であるマーシャル・マクルーハンによれば、メディアとしての情報の精細度を欠くがゆえに、受容の段階で受け手の想像力の喚起を要請するメディアのことであり、そこでは私たちの五感は総体的に同期するのだ。
ゆえに、作品と鑑賞者との権力関係をラディカルに暴露しようとする現代美術のコンテクスト、そして、実は決められた形式に鑑賞者を取り込むことでインタラクティブ性を担保しているメディアアートのコンテクストの両者を拒否しても、なおかつ、「見ている私たち」を環境へと投影する「クールなメディア」としてエリアソンの作品は存在する。そして、これこそが、エリアソンの「クールさ」でもあるのだ。