なぜ私たちにフィクションが必要なのか。私たちがリアルだと思っている物体ももしかすると、個々の脳のせめぎあいや、結びつきをもとめるコミュニケーション、感情といった目に見えないものの表出なのかもしれない。今日では我々はもう都市という脳のつくりだすフィクションのなかにすっぽり漬かってしまっているのではないか?しかし、リアルの有り様、捉え方は個々によって違うはずでそのずれを認識すること、過ぎ去る時間の中で確かに存在するリアルの姿を再構築する過程としてのフィクションを認識すること、あるいはフィクションをつくりだし逆説的にリアルを表現する役目を、特に今回の展示でアーティストたちはまったく違う視点で、自覚的に担っているように思えた。
学芸員の大谷省吾さんのお話では、作家をきめる時まずイケムラレイコの作品が思い浮かんだという。
《横たわる少女》では深く暗い闇の中で少女、あるいは他の物体とも思えるものが横たわりうつむいている。作者はそれを自分の姿でありどこかで自分とつながっている他人の姿でもあると語っていたそうだ。精神の奥深い亀裂の中に飛び込んでいき着地した場所で、他者と自分との間にある“リアル”を静かに感じようとしているように見えた。
ソフィ・カルの作品は写真に自伝的な文章を添えている。見る者はその内容が本当に事実なのか、それともつくられたフィクションなのかその境目に思いを巡らすことになる。
やなぎみわの写真作品は、無菌状態にも見えるSF的な雰囲気の場所で案内嬢たちがうつろな目をしてガラス越しの花に囲まれ座り込んでいたり、私たちを見物するかのように並んで中央を見下ろしている。彼女たちは普段消費の案内人としての役割を果たしているが、この空間では私たちと同じようにどこへ行き何を求めればいいのか思案しているようにも思える。
塩田千春の映像作品は、普段は体を清めるための浴槽で繰り返し泥をかぶり続ける。一瞬私は口の奥に唾液と泥水の存在を感じ、たじろいた。鋪装された道路の上で生活していると、忘れてしまいそうになっていた感覚だ。スペースの中に置き去りになってるかのような小さなテレビのモニターが、どこか身体感覚に直接訴えかけてくる。
イケムラレイコ、ソフィ・カル、やなぎみわ、塩田千春この4人のアーティストのアプローチは異なっているけれど、展示を見終わった後に観者として彼女たちのリアルの手ごたえを得られると思う。そして、その感覚も会場を訪れたひとりひとりの“リアルのためのフィクション”として動きだし、今までとは違ったリアルを生み出すのかもしれない。是非実際に会場を訪れてみて欲しいと思う。私たちは感じることができるだろう。求めていた“リアル”を。今まで知りえなかった他者の痛みを。
画像(上):イケムラレイコ《横たわる少女》1997年 東京国立近代美術館所蔵
画像(下):やなぎみわ《案内嬢の部屋1F》1997年 京都国立近代美術館所蔵