公開日:2009年4月4日

物語を受け継ぐ写真たち

アメリカ人写真家ポーレ・サヴィアーノへのインタビュー

現在、浅草の中心地で展覧会を行っているアメリカ人写真家のポーレ・サヴィアーノが長崎原爆や東京大空襲を生き延びた人々を撮影した作品について、TABlogへのインタビューに答えてくれた。

ポーレ・サヴィアーノは、ニューヨークを拠点にしているが、今回の展覧会が東京のギャラリー・シーンへの初めての進出でもないし、またこれで最後になることもないだろう。彼は、ミュージックバンドやファッションモデルの写真撮影からスタートし、2007年にはギャラリー・エフで、色彩鮮やかな作品展『ストリプティーズ・バーレスク』を開催。この展覧会はその後、中国とフィンランドへと巡回した。

現在、彼はまったく異なる展覧会『FROM ABOVE』とともに東京へ戻ってきている。戦時中に首都・東京で起きた大空襲の記念日と時期を同じくして開催されたこの作品展では、生命力あふれる人々のポートレイト写真が展示されている。長崎や東京で攻撃を受けながらも、生き延びた人々の今を撮影したものだ。
Paule Saviano, [豊村美恵子(東京) ]なぜ、このプロジェクトを始めたのですか? きっかけは?

最初に日本へ来たとき、広島や長崎の平和資料館へ実際に行けば、生存者に会えるかもしれない、ということに気づきました。歴史の本には人の顔は載っていません。私は、人が何を感じたのか、その感情に興味があります。でも歴史書には決して登場しません。長崎の平和資料館に手紙を書くと、現地の人々はとても歓迎してくれました。(生存者について)学ぶことに関心があったのです。それに、長崎の原爆は見過ごされているという気持ちもありました。東京大空襲も同じで、東京で何が起きたかを本当に知っている人はほとんどいません。それは、正真正銘の地獄の一夜でした。

記憶と生存者というテーマにおいて、(東京大空襲で焼け残った土蔵を活用する)ギャラリー・エフは最適な会場ですね。このギャラリーには、どのように出会ったのですか?

2007年6月、私はギャラリー・エフで展覧会を行いました。東京大空襲関連の撮影については、その時に種がまかれたとも言えるでしょう。ギャラリーに飾ってある古い写真、大空襲の1週間後の浅草の風景なのですが、それを見て、強い衝撃を受けました。歴史書は私に事実を教えてくれました。そしてその写真は空襲の風景のイメージを与えてくれました。しかし、体験した人にはまだ出会っていませんでした。

とりわけ、東京大空襲のパートについては、この会場は今回の写真を展示するのに最適な場所です。私はギャラリーの土蔵の写真も撮影しました。

それぞれのポートレイトに対して、どのように取り組みましたか?

私の作品の魂は、人間であり、また人々が何を感じ、そしてどんな感情を持っているかにあります。それこそが私が追求していることです。17人の個人を撮影しましたが、その体験とどのように向き合ってきたかは、それぞれの方でまったく違います。写真を見てもらえれば分かりますが、火傷の痕もないし、恐怖を感じることもないでしょう。センセーショナリズムはどこにもありません。

私は、人々にポーズをとらせることもしませんでした。ただ、そこにいてもらって、こう言うのです。「信頼してください。あなたが嫌な思いをするような写真は絶対に撮りません」。豊村美恵子さんは、義手を付け、杖をついています。しかし、私にとっては彼女が誰よりも力強く思えるのです。撮影の間、彼女はまったく動かなかったように私には思えました。私が彼女の周りを動き回ったのです。

撮影はどのように行われましたか?

長崎では平和公園へ行き(、撮影を行い)ました。東京では、ほとんどの生存者の自宅を訪ねました。より親しみを感じることができましたね。質問と回答というかたちではなく、会話をしました。同行した通訳にとっては大変だったと思います。

それぞれの体験談は異なりました。それぞれの会話も異なりました。私は個人的な関係性のなかで作品づくりをします。いつもの撮影では被写体になる方と2人きりになります。今回は通訳が入ったので状況は違い、会話は三方向に行われました。これはチームによる共同作業と言えるでしょう。

生存者の方々はおよそ2時間にわたり話してくれました。2時間を一緒に過ごすと、人々は私に心を開き、私も人々に対して心を開きます。そして、撮影を開始するのです。

美という観点からは何を達成することを目指しましたか?

カメラはハッセルブラッド、レンズは80ミリを使用しました。それぞれの人物を24枚ずつ撮影しました。すべての写真をモノクロでプリントしました。とても古風な方法です。

写真に対しては何も手を加えず、デジタル処理もしませんでした。全身を撮影すると、視線が定まりません。ですから、ほとんどのプリントは、(生存者の顔に) 迫っているのです。

人々はとても自然に写っています。気品があり、まるで彫像のようです。それは、ローアングルから見上げるように撮影したことによるものです。すべてをモノクロにしたのは、人に焦点が合うようにしたかったからです。背景が散漫になることを避けました。とても繊細で、とても写実的です。私は純粋なモノクロでプリントしました。とてもリアルです。力強さとシンプルさを同居させるのはとても難しいことですが、この作品群ではそれが達成できました。

アメリカ人であることを、心配しませんでしたか?

この撮影は人の魂についてのものだと理解しています。私がアメリカ人であるという話題は一切出ませんでした。

人々は私の年齢に驚きました。私は今、34歳です。(ある女性は)「あら、私の孫もちょうど34歳ですよ」と言っていましたね。

なぜ、撮影した人々のうち、2人だけが2枚ずつ展示されているのですか?

この2人はもっとも力強い被写体だと思ったからです。

額装とプリントがとても美しいですね。この空間で作品の展示構成をするときにどんなことを目指しましたか?

額装もまた展示を組み立てていく物語のひとつです。突き詰めて言えばこれらの写真は私のものではなく、撮影に応じてくれた生存者の写真だと思います。

私たちは、平和資料館のようなアプローチはしなかった。アートと歴史の間で、バランスを保つことができました。極端に言えば、すべてが人物に集約するようにしたかった。12時間かけて写真をいろいろと配置し、30分外で休んで、またギャラリーに戻る。(そんな作業を続けました。)

ギャラリーに入ったところに展示してある2枚の写真は、とてもあたたかく、観る人を歓迎してくれます。人々がこの写真展について最も懸念していることは、何か衝撃的なものを見せられるのではないか、ということでしょう。私たちは、まず最初にそういった(あたたかい)トーンの写真を展示する必要があったのです。Photo: Paule Savianoこれまでにどんな人々がこの展覧会を観に来てくれていますか?

高齢の方が多いですね。でも、18歳の女性が来場し、私にこんなことを話かけてくれました。「私の祖母は、東京大空襲の被災者です。祖母は、そのことについてまったく話してくれたことがありません。祖母に大空襲のことを聞いてみようと思います」。

私にとっては、何よりも重要な言葉でした。彼女が家に帰り、おばあさんから空襲の話を聞けたら、その物語は受け継がれていくのです。それは私にとっては、「素晴らしい写真だね」と言われるよりも、ずっとうれしいことですよ。

この展覧会の今後の予定はありますか?

終わったら、考えてみます。このプロジェクトは、とても個人的なものでした。もし、何か要請があれば、よろこんで(また見せたいですね)。

また別のプロジェクトで日本へ帰ってくる予定はありますか?

ギャラリー・エフは、私がヴィジョンを得る場所であり、私の作品の帰るべき場所です。初めて日本に来たときは、本当にうんざりしました。なんてひどい場所なんだと思いました。人と人のつながりというものをまったく感じられなかった。しかし、ここに来て、今では故郷のように感じます。3年間で、展覧会を2回開催しました。私にとって、ギャラリー・エフは、初恋の女性のような存在ですね。

ポーレ、話してくれて本当にありがとう。

ポーレ・サヴィアーノ ウェブサイト

William Andrews

William Andrews

ウィルが日本へやって来たのは、東京アートビートが始まったのと同じく2004年。ウィルの来日とTABのスタートという、日本にとって二つのビッグな出来事は、悲しくもなんの繋がりもないまま時は過ぎ去り、さしあたって大阪を拠点に教師と関西アートビートの翻訳者として活動。2008年ようやく東京へ到着。ギャラリーを散策していない時はよく都内の劇場に出没。日本の現代演劇についてのブログ(英文)も作成したりしている。