公開日:2011年1月6日

「東京アートミーティング トランスフォーメーション」 展

アートと人類学が出会い、世界の向こうに変容する展覧会。

東京文化発信プロジェクトとTABがタイアップしてお届けするシリーズ記事。第6弾は、アートと人類学が出会い、新しいアートの可能性を提示する「東京アートミーティング トランスフォーメーション」 展を紹介します。[ユミソン]

≪バーセイションズ-四部作:北≫2005
≪バーセイションズ-四部作:北≫2005
ガブリエラ・フリドリクスドッティ

中沢新一(宗教学者・人類学者)、長谷川祐子(東京都現代美術館チーフキュレーター)による共同企画の展覧会、「東京アートミーティング トランスフォーメーション展」は15カ国21組のアーティストが参加し、「変身-変容」をテーマに人間とそうでないものとの境界を探っています。フランチェスコ・クレメンテ、マシュー・バーニー、ヤン・ファーブルなどなど……名だたるアーティストの中に、まだ学生でこれからキャリアが始まる及川潤耶なども名を連ね、参加国もヨーロッパからアジアまでを網羅した多様な表現を扱う展示になっています。

≪第1-18章≫の前で
≪第1-18章≫の前で
ヤン・ファーブル 
展示風景
展示風景
ヤン・ファーブル


トランスヒューマニズムの果てにあるような動物と融合した人間の作品を、幾人かのアーティストは制作しています。生物学的な意味でトランスフォーメーションは、形質の転換です。外部の遺伝子を取り入れその遺伝的性質を変化させているかのような作品は、一見おぞましく見えますが、生命の持つ不思議な安心感を私たちに印象付けます。

生命倫理、環境などに関心を寄せ、「突然変異体」を生み出すトリシア・ピッチニーニ≪新生児≫はその一例。太古の時代からその形を変えることなく生息しているカモノハシと人間の変異体を展示しています。静かに見つめていると息が聞こえそうな乳児は不気味でもあり、愛らしくもあります。

≪新生児≫ 2010年
≪新生児≫ 2010年
パトリシア・ピッチニーニ
≪飢えた犬は汚れた餌に甘んじる≫ 2004年
≪飢えた犬は汚れた餌に甘んじる≫ 2004年
バールティ・ケール


アイデンティティや女性の役割に関心を寄せるバールティ・ケールは女性と猛禽類の変異体の写真作品群≪ハイブリッド・シリーズ≫、ヒンドゥーの女性の額に施す装飾・ビンディを作品のモチーフにした平面作品、犬と掃除機の変異体≪飢えた犬は汚れた餌に甘んじる≫などを展示しています。

シャジア・シカンダー はパキスタンのラホールで学んだ伝統的な細密画を用い、映像作品やインスタレーションを展開しています。動物や人間、現代社会の権力やアイデンティティの融解がその中で表されています。

トレーシングペーパーを用いた巨大なインスタレーションの前で
トレーシングペーパーを用いた巨大なインスタレーションの前で
シャジア・シカンダー

≪木を丸ごと飲み込んだ男≫ 2010年 展示風景
≪木を丸ごと飲み込んだ男≫ 2010年 展示風景
アピチャッポン・ウィーラセタクン
「パルムドール」を受賞したアピチャッポン・ウィーラセタクン


もちろん変容は形だけでなく内面にも影響を及ぼします。アビチャッポン・ウィーラセタクンは、カンヌ映画祭の最高賞「パルムドール」を受賞した映画監督で、アーティストでもあります。≪木をまるごと飲み込んだ男≫は、タイのジャングルのツタと戦う人々をテーマとしたドキュメンタリーの映像作品で、その横には幻覚効果のある植物でトランスしている男性の写真が展示されています。

2001年に七大陸世界最高峰登頂を達成した冒険家であり、写真家・文筆家としても活動する石川直樹は、エベレストに登頂する過程の内面を本展キュレーター長谷川祐子がインタビューする形の映像作品≪極点のトランスフォーメーション≫として構成しています。サラ・ジーは、箱庭の中で営まれている些細な出来事を切り取ってみせることで、時間の変容を作り出しています。ここでのトランスフォーメーションとは構造の変容を意味しているようです。

《フィオン・マクマイル:徒弟の場合》 2002年 インスタレーション部分
《フィオン・マクマイル:徒弟の場合》 2002年 インスタレーション部分
サラ・ジーのインスタレーション部分
サラ・ジーのインスタレーション部分


≪最後の暴動≫ 2007年 展示風景
≪最後の暴動≫ 2007年 展示風景
AES+F

展示風景
展示風景
ジャガンナート・パンダ

私たちの世界は、自由が目に見える形で(もちろん見えない形でも)制限されています。それを乗り越えるために、自分自身をも変えていかなければならない。そのためには人間の形を捨てる可能性もある。もしかしたら動物との融合も有り得る。今回は美術という切り口からその変容を見せた。そんなことを記者発表で中沢は発言しています。

制限されている自由とは何なのでしょう。それを超えるためになぜ私たちは今の形を捨てなければならないのでしょうか。不自由の中で生まれた(とされる)私には、不自由さそのものの外に立ったことが無いので、自由と呼ばれているものの輪郭さえ見えません。そもそも自由は輪郭も存在も定かではない鵺(ぬえ)のようなものかも知れません。それならば、獲得した途端に自由がまた意味を変えてしまうので、私たちは永遠に変容し続けなければなりません。

変容し続けることだけが変わらないとすると、変容自体がアートと重なり近くなって、最終的にはイコールになってしまう。また今回見せている変容はトランスフォーメーションではなく、メタモルフォーゼのようだと感じました。それについて東京藝術大学で行われたシンポジウムで美術評論家の伊藤俊治から指摘を受けた中沢は、変身や転生の果てには貨幣(資本)が待ち受けているので、メタモルフォーゼという言葉は選ばなかったと発言しています。

この事からも、変容の果ての形態はメルトダウンする可能性はあるとしても、目的を持ったものにはならない事が伺い知れます。中沢は世界との融合を自由と呼んでいるのかも知れません。もしそうなら、今の形を変える必要が私たちにあるのでしょうか。変えられない形を持つ私を知ることが、この私の身体が、世界との契約の鍵そのものではないのか。鍵のありかを知るために私たちは変容し続けるのか。そんな憶測が頭をよぎりました。

アーカイヴ設計を担当した、小田マサノリ

アーカイブ展示として、小田マサノリも参加しています。小田は別名イルコモンズとしてアーティスト活動もしています。小田の活動は変容ではなく、変革。もっとはっきりと言えば革命です。アーカイブは時代や場所、人類学からマンガのジャンル横断をした「変身-変容」に関連する資料の展示。今回、企画者の中沢は美術だけでなく博物館とも連動して展示を行いたかったと発言していたので、このアーカイブは博物館的な位置づけでありながらも、変革の意識が見え隠れしています。単純なアーカイブに留まらない二重性も楽しめました。

期中はパフォーマンスやアーティスト・トークなど多くの関連プログラムやエデュケーション・プログラムが行われるほか、「東京藝大トランスWEEKS」と題して、東京藝術大学でも文中で触れたシンポジウムや若手作家によるディスカッション&パフォーマンス、東京藝術大学在学生および卒業生による展示が展開されました。

自由を得るために変容を続ける私たちのトランスフォーメーション。アーティスト達は、描く先の自由をどんな形で私たちの前に表しているのでしょう。会場には映像作品など多数あり、一日かかっても全部を見終わることは困難な内容の豊かな展覧会です。ぜひ現場で楽しんでください。

TABlogライター:ユミソン ふにゃこふにゃお。おとめ座・現代美術家・独学・こぶし(ネコ)と一緒に東東京在住。インスタレーションや言葉を使った作品を制作。「ユミソン制作キロク」に日々のことを書いてます。

東京文化発信プロジェクト

東京文化発信プロジェクト

東京文化発信プロジェクトは、「世界的な文化創造都市・東京」の実現に向けて、東京都と東京都歴史文化財団が芸術文化団体やアートNPO等と協力して実施しているプロジェクトです。都内各地での文化創造拠点の形成や子供・青少年への創造体験の機会の提供により、多くの人々が新たな文化の創造に主体的に関わる環境を整えるとともに、国際フェスティバルの開催等を通じて、新たな東京文化を創造し、世界に向けて発信していきます。