中村橋駅から徒歩3分ほど、あふれる緑の中、動物たちのモニュメントに迎えられ練馬区立美術館へ。今回訪れたのは、漫画家、しりあがり寿による「しりあがり寿の現代美術 回・転・展」だ。
2フロアからなる本展。2階は漫画作品が中心、3階では、ゆるいアニメーション「ゆるめ〜しょん」に始まり、本展の目玉である回転作品が並ぶ。
回転作品の展示では、とにかくいろいろなものが回る、回る、回る。とにかく意味がわからないが、どことなく可笑しさが漂う。あとに続く作品にも同様の雰囲気があり、そのせいか、笑みを浮かべながら鑑賞する来場者が多いように思えた。
大量のものが理由なく一斉に回転している異様な光景。回転という動きが私たちの理解を超えていく。
目が回りそうなほどの回転を見せつけられる中で、ふと思うところがあった。回転、という動きは特別なものではない、と。そして気づく。回転は身近に溢れているではないか、目が向かなかっただけではないかと。なぜならそれは当たり前すぎることであったから。
私たちは、回転の中に生きている。
私たちは回転への衝動を内に秘めているのかもしれない。目が回る、頭の回転が早い、などは日常的に使われる表現だ。お寿司も、床屋のサインポールも回転しているし、山手線だって上から見れば回転している。走る車のタイヤも、扇風機も回転している。他にも探せば沢山あるだろうが、私たち人間は生活の中で、これほどまでに回転を作り出しているのだ。ひょっとすると、ものを回したがるのは私たちの本能なのかもしれない。
私たちが作り出したものにとどまらず、自然界においても回転は溢れている。流れる血液も体内を回っているし、竜巻だって回転によるものだ。果ては私たちの生きる地球も公転と自転という同時に二つの回転をしているのだ。こうして考えてみると、どうやら回転と私たちはとても深い関係にあるようだ。
「回・転・展」の展示の中にしりあがり寿による「回転宣言」というものが掲げられている。
その一節を抜粋する。
「ヤカンが静かに回り出す
ゆっくりゆっくりくるりくるり
その姿はこのうえなく美しい
しかし回りだした瞬間、それはもう元のヤカンではない
水も汲めない、湯も沸かせない、ただ静かに存在感を放つだけの金属だ
そんな機能も目的も失ったヤカンの存在を許す場所はどこだろう
それは台所でも食堂でも金物屋でもショーウィンドウでもない
そう、それは美術館
故にヤカンは回って芸術となった」
機能も目的も失ったヤカンは、ヤカンではない何かになった。ヤカンの形をしたもの、そのものになったということであろうか。回転という動作を介して私たちは、それをまざまざと見せつけられる。かつての印象派も、描き出したかったのはものの本質であったはずだ。芸術とは、存在そのものに目を向けさせる行為であるようだ。
日々私たちはどれほど「回転」を意識していただろう。身近な、だがとても大きな「回転」という存在は絶えず私たちの世界の一部を動かし続けている。今回の展示は「回転」という一つの切り口から、現象への無意識を意識化させてくれた。
世界を見つめる新たな(だがそれは気づいていないだけかもしれない)視点を得る。芸術は私たちに発見をもたらしてくれる。見方を変えれば、景色が変わる、のだ。
さて、この駄文をひねり出すにあたり、頭をフル回転させた筆者はこのあたりでペンを置こうと思う。だが、またしばらくすると、無意識のうちにそのペンを回し始め、回転という、そしてひいては芸術という、大きな波に飲み込まれていくのであろう。
[TABインターン] 坂井大生: 都内の大学に在籍してはいるものの通学しているかはかなり怪しく、巷では出家も噂されている。その溢れる文才により、文化界各方面から引く手数多のコラム二ストであったらいいのに。映画館ではキャラメルポップコーンのスタイル。