公開日:2016年11月30日

アートの中のオンナたち —原美術館「快楽の館」編—

アートの中における「女性」の表現を考える。

ヌードの女性たち、館での不思議な体験
芸術作品の中で、女性の姿を扱ったものはどれほどたくさんあるのだろうか。この記事を読んでいるあなたも、絵画や彫刻にあらわされた見知らぬ女性の裸を何人も見てきたことだろう。星の数ほどある女性を扱った芸術作品において、彼女たちはどのように表現されてきたのか?あるいは、女性芸術家はどのような芸術作品を表現しているのか?このレポートでは、「女性」と「アート」のかかわりについて、実際の展覧会を通して考えてみたい。

現在、東京都品川区にある原美術館で開催中の展覧会『快楽の館』。日本を代表する写真家である篠山紀信が原美術館の館内のみで作品を撮影・展示するという一風変わった展覧会だ。この展覧会のもうひとつの特徴は、作品に登場するモデルが総じてヌードであること。全館が篠山紀信撮影のヌード写真で埋め尽くされた美術館は、普段の展示と全く姿を変えており、異様な雰囲気が漂っている。写真が撮影された場所でその写真を鑑賞する体験は、わたしたちに不思議な高揚感と少しの違和感をもたらしてくれるだろう。建築物そのものが持つ魅力を最大限に生かした画期的な手法は、いわゆるホワイトキューブの美術館では不可能だ。では、実際の作品にはどのような女性像があらわされているのだろうか?本展に登場したモデル33人のうち男性モデルは1人だけで、作品のほとんどは女性を写したものである。私は、この展覧会のキーワードは「人形」「死」「快楽」という3点に集約されるのではないかと考えた。以下ではそれぞれのキーワードからこの展覧会を振り返ってみよう。

原美術館中庭で撮影された一枚。女性たちの肢体の美しさに目を奪われる。
原美術館中庭で撮影された一枚。女性たちの肢体の美しさに目を奪われる。
篠山紀信「快楽の館」2016年 ©Kishin Shinoyama 2016

人形になった身体、視線の交錯
ひとつめのキーワードは、「人形」。この展覧会に集まった作品に対する第一印象は「無個性さ」だった。30人以上存在する作品の被写体は当然ながらその全員が異なる身体を持っている。しかし、写真に写った彼女たちの身体はみなどこか似ているのだ。乳房や局部にはなめらかな修正が施され、均一な肌色と完璧なヘアメイク。写真というメディアには現実を切り取るという特徴がありながら、写真に写された彼女たちには現実と乖離したイメージが付きまとう——そのすべてが作り物のようで、現実味がないのだ。女性たちは美しさと圧倒的な個性を湛えながら、自らの感情を鑑賞者に訴えかけてくることはない。この展覧会にはテレビタレントの壇蜜や、現役アダルトビデオ女優、驚くようなポージングも容易にこなすポールダンサーなど様々なモデルが参加しているが、ひとたび作品の中におさまった彼女たちは「快楽の館を訪れた美女のうちのひとり」へと変化する。その姿はまるで、ドールハウスに並べられた「人形」のようなのだ。

驚くような身体性を持つ女性だが、受付の女性と視線が交わることはない。
驚くような身体性を持つ女性だが、受付の女性と視線が交わることはない。
篠山紀信「快楽の館」2016年 ©Kishin Shinoyama 2016

完璧な美しさを持ち、自ら語り出すことはない人形たち。印象深いのは、女性たちが第三者の視線にさらされている状態を撮影した作品がいくつか展示されていたことだ。美術館の入り口で男性(この男性、実は原美術館の館長さん!)を誘う写真、部屋の中でポーズをとる女性を男性がじっと見つめる写真、美術館の職員から受付でチケットを購入するヌードの女性たちの写真など。これらの作品にはいずれも、モデルではない第三者、着衣の人物が画面に収められている。しかしこれらの写真を見比べてみると、女性を直視している第三者は男性のみであることに気が付く。第三者の男性がモデルをじっと見つめ、時には誘惑されるのに対し、第三者の女性(美術館の職員)はモデルの方を向くことすらしていない。彼女たちに投げかけられる男性の「視線」を意識してみると、女性たちが誰にとっての「人形」なのか、その輪郭が明らかになる。美術史上では、着衣の男性と裸の女性が同一の画面上に描かれるシチュエーションがしばしば見られる。こういった画面構成は官能的な場面として受容されるだけではなく、男性の女性に対する支配的な意識や従属関係をあらわすものとしても解釈されてきた。篠山の作品においては、ヌードの女性たちは着衣の男性の視線の対象として意識されており、エロティックなアプローチと主従関係の露呈を強調する存在としてあらわれている。彼女たちは男性の視線にさらされる人形、男性の欲望の対象となる存在として『快楽の館』に集っているのだ。

訪れる者を館へと誘う夕暮れ。男女の視線が交錯し、身体が触れ合う。
訪れる者を館へと誘う夕暮れ。男女の視線が交錯し、身体が触れ合う。
篠山紀信「快楽の館」2016年 ©Kishin Shinoyama 2016

死臭の充満、命のない女性たち
美しい人形のようにも思える女性たちには、妖艶さのかたわら不気味さが付きまとう。この不気味さはどこから来るのか?2階のギャラリーⅤに展示された1枚の写真は、その理由を私たちに示唆してくれる。
これまで4つのギャラリーで様々な女性の身体を目の当たりにしてきた鑑賞者は、展覧会の最後にこの作品に出会う。美術館の屋上から撮影されたこの作品には、仰向けに倒れた女性が写されている。彼女の側には別の女性がうずくまり、その表情を伺うかのように顔を覗き込んでいる。倒れた女性の口もとからは一筋の血が流れており、まるで投身自殺をしたかのように見える。彼女は死んでいるのだ。この作品は、「これまで見てきた人形のような女性たちは皆、すでに死んだ存在だったのか?」という問いを鑑賞者に投げかけるだろう――—しかし、私たちは美術館に入った瞬間から、女性たちの「死」をうすうす知っていたように思われる。
彼女の「死」に現実味はない。写真に写った「死」にはどろどろの血液も粉々になった身体もなく、絵画のように美しく理想化された「死」が私たちに突き付けられる。展覧会に寄せられた篠山自身のコメントには、その予感がはっきりと記されている。

  美術館は作品の死体置き場、/死臭充満する館に日々裸の美女が集う。

男性のまなざしを介した理想的な女性、生命のない女性たちが「快楽の館」に蒐集されている。フランス文学者である澁澤龍彦は『少女コレクション序説』において、男性の観念の中に存在する「主体的には語り出さない純粋客体」(1)としての女性が芸術家の心を惹きつけてやまない傾向を示した。彼の言葉を借りれば、彼女たちは「ファンム・オブジェ=客体としての女」としてあらわされているのだ(2)。この展覧会で見ることのできる女性の姿は、現実味のある生きた女性ではない。命のない人形、欲望の客体としての理想化されたイメージが館内に充満している。

「快楽」はだれのもの?
「快楽の館」というタイトルはフランスの小説家アラン=ロブ=グリエの『La maison de rendez-vous』からの引用だ。原題を直訳すれば「出会いの館」。この展覧会の基本的なアイデアが「ここ(=原美術館)で撮った写真をここに帰す(=展示する)」(3)であることからもわかるように、本展の最も重要な核となっているのは、写真家である篠山自身と館あるいは女性たちとの出会いだといえよう。
では、「出会い」を「快楽」へと変貌させたのは誰なのだろうか?それは間違いなく写真家、篠山自身である。写真展のタイトルが「出会い」から「快楽」へと変化したのは、館との邂逅が写真家の身体を介することによってイメージとして可視化されたことのひとつの結果であるのだ。篠山自身は、「快楽の館」の「快楽」は、「写真を撮る快楽」であり、エロティックな意味を離れたものだと語っている。
しかし、筆者にとってはこの「快楽[pleasure]」が完全にエロティシズムから切り離されていると考えることには無理があるように思われる。前段で見てきたように、写真の中の女性たちは男性の目線を介して切り取られた理想的な「人形」としてあらわれており、彼女たちは自らの言葉を持たない。女性たちは写真家の欲望によってエロティックに搾取された「死んだもの」にも見える。館の中で生じる「快楽[pleasure]」は、エロティックな愉しみを含んだ身体的な快楽であり、性的欲望を満足させることによって生じるものである。エロティシズムと強く結びついたこの「快楽[pleasure]」は、あくまで個人の身体的感覚に基づいたものであり、普遍的な同意を必要としていない(4)。「快楽の館」において表現されたのは、写真家自身の個人的な欲望を満たすことによって生じる主観的な快楽であると解釈することができるのだ。そしてこの快楽は、女性が男性のまなざしを介して表現されることと深く関連づけられる。この作品は写真家個人の肉体的な快楽をあぶり出すだけではなく、普遍的かつ古典的なジェンダー意識、男性の視線の支配下にある女性の姿を鑑賞者に投げかける。本展の作品にみられる女性たちは、男性の主体的まなざしの対象として無意識のうちに権力関係の下に存在しているのかもしれない。芸術における女性の表現については多様な議論がなされてきたが、今回の展覧会で鑑賞者が出会う女性たちは、ジェンダー化された思考あるいはジェンダー的な形式の中に位置づけられた身体として提示され得るのだ。

テレビやグラビアで活躍する壇蜜もモデルとして登場する。
テレビやグラビアで活躍する壇蜜もモデルとして登場する。
篠山紀信「快楽の館」2016年 ©Kishin Shinoyama 2016

[註]
(1) 澁澤龍彦「少女コレクション序説」(『少女コレクション序説』、中公文庫、1985、13頁)
(2) 澁澤、13頁
(3) http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/IoXcFNSpLejTadmKb86i
(4) 芸術作品における快感情、および快感情とジェンダーの結びつきについては、キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』(長野順子・石田美紀・伊藤政志訳、三元社、2009)に詳しい。

[TABインターン] 齋木優城: 神戸大学卒業、東京藝術大学芸術学科美学専攻修士課程在籍。研究テーマは芸術作品における女性の表象について、卒業論文で扱った作家はバルテュス。沖縄生まれ神戸育ち。趣味はジャズダンス、新作の口紅をチェックすること。お酒、コーヒー、スパゲッティが好き。デートに行くなら新宿御苑。

TABインターン

TABインターン

学生からキャリアのある人まで、TABの理念に触発されて多くの人達が参加しています。3名からなるチームを4ヶ月毎に結成、TABの中核といえる膨大なアート情報を相手に日々奮闘中! 業務の傍ら、「課外活動」として各々のプロジェクトにも取り組んでいます。そのほんの一部を、TABlogでも発信していきます。