公開日:2018年8月3日

映画『バンクシーを盗んだ男』レビュー

生まれも育ちもパレスチナのタクシー運転手にとってのバンクシーとは

正体不明のストリートアーティスト、バンクシーを題材にした新たなドキュメンタリー映画『バンクシーを盗んだ男』が8月4日(土)に公開される。ロンドンを中心に、世界各地で反権力的なグラフィティを描くことで注目されているバンクシーは、多くの人にとって、実物の作品よりもニュースサイトなどウェブ上で馴染み深い存在だ。
日本で2016年に公開された『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』では、1ヶ月間バンクシーがニューヨークを舞台に繰り広げたゲリラ展覧会「Better Out Than In(屋内より外がいい)」の顛末を追い、バンクシーを積極的に楽しむニューヨーカーたちの姿が描かれた。『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』は、映画評論家の森直人が評価するように「実に親切なバンクシー入門」である。では、本作は何か。本作はさしずめ「正鵠を射たバンクシー基礎編」といえないだろうか。入門編で得た知識をスプリングボードに、バンクシーをめぐる問題を炙り出し、鑑賞者とその問題意識を共有する。『バンクシーを盗んだ男』は、私たちがバンクシーを考えるにあたって興味深い視点を提供してくれる。

バンクシーが壁に描いた《フラワーボンバー》
バンクシーが壁に描いた《フラワーボンバー》
© MARCO PROSERPIO 2018

 

主人公格にパレスチナ人のタクシー運転手
舞台は、パレスチナ・ベツレヘム地区。本作は、イスラエルがヨルダン川西岸地区の境界に建設した高さ8m全長450kmにわたる分離壁にグラフィティを描き、世界中のメディアの耳目を集めることを意図したバンクシー主導のプロジェクト(グラフィティを描くことで、人々が触れたくない話題に光をあてる方法はバンクシーの常套手段だ)に端を発する事件に焦点をあてる。
バンクシーが分離壁に描いた作品のうちの1つ《ロバと兵士》がパレスチナ住民の反感を買い、壁から切り出され、4トンのコンクリート作品として海を渡り、ネットオークションに出品されてしまったという一連の事件は、以下のような議論を引き起こす。グラフィティに著作権はあるのか? 原則的に犯罪であるストリートアートを盗むことはタブーなのか? 描かれた場所と密接な関係を持つグラフィティを、その場から切り離して保存することの是非は? このような議論は『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』でも示唆されていると同時に、ストリートアートというジャンルが持つ普遍的な問題でもあるため、目立った新しさはない。
本作の特筆すべき点は、これらの議論を生まれも育ちもパレスチナのごく普通の一般人ワリドの視座を中心に展開したことにある。それもそのはず、本作が初長編監督作品となるイタリア人映画監督マルコ・プロゼルピオは、パレスチナ人のタクシー運転手ワリド・”ザ・ビースト”との出会いがきっかけとなって『バンクシーを盗んだ男』の制作に着手した。そして、ワリドは、「ロバと兵士」の売却に携わったメンバーの一人である。つまり、本作のモチベーションは「美術業界とは縁のない人物からみたバンクシー」にある。この点が従来のバンクシーを扱うドキュメンタリーと一線を画す点だろう。イスラエルに抑圧されているパレスチナの政治的状況と、キャンバスとしてバンクシーに勝手に使われている分離壁の状況が、ワリドを主人公格にすることによってオーバーラップする。

パレスチナの分離壁
パレスチナの分離壁
© MARCO PROSERPIO 2018

バンクシーの絵を一目みようと、分離壁に観光客やTVレポーターが押し寄せる。常ならば、紛争の絶えないガザ地区からそう遠くないベツレヘム地区にわざわざ足を運ぼうとする人は少ないだろうから、これらの現象は確かにバンクシーの思惑通りといえよう。しかし、世間の注目度が高まったからといってパレスチナの経済が回復するわけでも、分離壁がなくなるわけでもない。市民レベルの感覚でいえば、バンクシーが壁に絵を描いたところで何も生活は変わらないのだ。
ワリドがバンクシーを「壁に絵を描いて偽善者ぶってやがる」と評価するのも頷ける。ワリドを主人公格にすることによって、本作はバンクシーフレンドリーとは言い難いドキュメンタリーとなった。だが、あやうくバンクシー批判映画に振り切れてしまうところに、語り役としてパンク界のゴッドファーザー、イギー・ポップを導入したのは秀逸だ。第三者である彼のナレーションのおかげで外部視点の効果がもたらされる。その結果『バンクシーを盗んだ男』は、市民の代表としてのワリドに寄り添いながらも、見識の異なる幅広い人物たちーー収集家、修復家、キュレーター、アーティスト、弁護士、人類学者、ベツレヘム市長などーーのインタビューを取り入れることに成功した。

 

描かれた場所とその文化

壁から切り取られた《ロバと兵士》
壁から切り取られた《ロバと兵士》
© MARCO PROSERPIO 2018

そもそも《ロバと兵士》がパレスチナ住民の反感を買った原因は、バンクシーが中東文化への理解を欠いていた点にある。ロバは、アラビア語で侮蔑語にあたる。人間だけでなくロバまでもがIDチェックを受ける様子を描いた《ロバと兵士》によって、おそらくバンクシーは分離壁付近の警備の厳しさを揶揄する意図があったのだろう。しかし、バンクシーの意図するところは伝わらず、地元住民は「我々をロバ扱いするなんて」と侮辱されたように感じたわけだ。バンクシーは牛や馬を描くことも可能だったのに、ロバを描いた。分離壁にグラフィティを描くプロジェクトで地元住民の不要な怒りを買う必要性は全くないのだから、単純にバンクシーの中東文化に関する下調べ不足が引き起こしたすれ違いといえる。
この手のすれ違いは、なにもグラフィティに限った話ではない。たとえば文化の盗用に関する問題は、借用元文化へのリスペクトを欠いていること、バックグランドをきちんと調べていないことに由来する場合が多い。このように中東文化への理解なくして、西洋人が分離壁にグラフィティを描く様は、ワリドの発言「偽善者ぶっている」が象徴するように、さぞかし厚顔無恥な行為として地元住民の目に映るに違いない。

本作では、地元住民と思われる二人組が中東の伝統音楽を披露するシーンがある。フィックス撮影でたっぷりと時間がとられたそのシーンは、歌詞の字幕も表示されないため、鑑賞者はその聞きなれない音色に耳を傾けるだけとなる。息をつく暇もないほど数々のインタビューで構成された本作の中でのちょっとしたインターバルだ。その時間がなんとも心地よいのだが、それは同時に、バンクシーに対してぶつけたワリドの怒りが鑑賞者である私たちに反射するシーンでもある。すなわち、ドキュメンタリーを見ている私たちもロバを描いたバンクシーとそう違わないのではないか? という疑念が生じる場面だ。私たちのほとんどは、メディアが流すニュースで断片的にパレスチナを知っているだけで、パレスチナでどのような文化が育まれてきたのかを知らない。食も生活も音楽も美術も、彼らの文化を想像することさえ難しいことに気づく。バンクシーのドキュメンタリーというと、つい彼が描いた図像ばかり注目してしまう傾向があるが、このようなスマートな方法で、バンクシーが作品を描いた場所とその文化に鑑賞者の意識を誘導させる手腕には思わず唸ってしまう。

 

バンクシーはアートワールドの試金石になるか?
アートワールドとは、芸術というフィールドで一定の共通した価値観を有する権威を持った人々、またそのような人々で構成された美術業界の世界観のこと。ワリドたちが壁から切り出した「ロバと兵士」が、最終的にLAのオークションで売れ残るラストは、現代アートシーンの状況を写すようでなんとも象徴的だ。
私たちは、セレブリティがバンクシーの作品を購入した話をしばしば耳にする一方で、美術館が自腹でバンクシーを買ったという話は聞かない。ジャン=ミシェル・バスキアやキース・へリングなど、もはや美術館に収蔵されることが当然となっている作家の作品を扱うことはできるが、バンクシーとなると話は別になるようだ。つまり、「ロバと兵士」が売れ残った事実は、アートワールドが現在進行系で公共空間に描かれる、いわば生きたストリートアートに対応できていない証左だと考えられよう。

売れ残った原因には、重さ4トンの「ロバと兵士」が、展示するにも保管するにも扱いが難儀だという実務的問題があるかもしれない。しかし、もとよりストリートアートを正面から批評するアートワールドの論客が少ないため、ストリートアート研究が未成熟である背景も少なからず関与しているはずだ。慣習的に、ストリートアートが論じられるのはもっぱらサブカルチャーの文脈である。その流れを打破すべく欧米では、既存の美術史の文脈でストリートアートを論じようとするのではなく、美術の定義そのものを拡張することでストリートアートを組み込む試みが見られる。具体的には、2008年にはテート・モダンが「Street Art」展を、2011年にはロサンゼルス現代美術館が「Art in the Streets」展を企画したことが挙げられる。
他にもたとえば日本では、ストリートアートを特集した2017年6月号の『美術手帖』において「絵画史における落書き的表現」と題したグラフィティと現代アートを接続する試みが行われた。このように各地でストリーアトートを美術の文脈で論じようという努力がなされている。とはいえ、街中で育ったストリートアートを美術館やギャラリーというある種権力的な箱の中で展示することの是非については、本作で紹介された意見の相違に認められるように未だ平行線だ。アートワールドがバンクシーの作品にいかに対応していくのかという件は、今後の美術業界で問われることになるだろう。そして『バンクシーを盗んだ男』は、バンクシーがその試金石になるポテンシャルを持っていると私たちに強く確信させる。

 

本作の公開によって、バンクシーにまつわる優れた映画が3本揃う。バンクシー自らが監督したなんとも奇妙な作品『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』、『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』、そして『バンクシーを盗んだ男』の3本だ。『バンクシーを盗んだ男』は、公開済みの2作品を繋ぐ「基礎編」としての役割を果たすだろう。バンクシーからグラフィティ文化に興味を持った方には、大山エンリコイサムの『アゲインスト・リテラシー: グラフィティ文化論』(LIXIL出版、2015年)をお勧めしたい。
 

© MARCO PROSERPIO 2018

■映画『バンクシーを盗んだ男』
監督:マルコ・プロゼルピオ ナレーション:イギー・ポップ
配給:シンカ 宣伝:スキップ
2018年/イギリス・イタリア/カラー/デジタル/英語/93分
8月4日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテ
ほか全国順次公開
http://banksy-movie.jp

伊藤結希

いとう・ゆうき

伊藤結希

いとう・ゆうき

執筆/企画。東京都出身。多摩美術大学芸術学科卒業後、東京藝術大学大学院芸術学専攻美学研究分野修了。草間彌生美術館の学芸員を経て、現在はフリーランスで執筆や企画を行う。20世紀イギリス絵画を中心とした近現代美術を研究。