ニコンプラザ東京作者は30年ぶりに再び水俣を撮影することになった。
1974年、作者は現地の状況を記録すべく移住を決意した。前年には熊本裁判で原告が勝訴し、患者の人達は「もう、そーっとして欲しい」そんな気持ちだったと思われる。
撮影は仲々困難であったが、作者は無我夢中でシャッターを押し続けた。当初新鮮に見えた被写体も、目が慣れてくるのか平凡なものとなった。作者は生活の為ここで漁師になろうと漁船免許も取り、そしてある網元の家内(身内)となり、そして現地の漁師の人達も受け入れてくれた。そして作者の子供も生まれた。
4年間歴史的現場に身を置きながら、写真はうまくいかなかった。作者は、「水俣は私の青春の失敗の場」と考えざるを得なかった。そして1978年、親子3人で大阪へ戻ることにした。これまでの四半世紀の間、水俣の写真は発表しなかったし、将来的にも発表する気持ちはなかった。
2006年、桑原史成氏より「水俣を見た7人の写真家たち」展開催の話はあったが、参加の意思はまったくなかった。しかし、強く背中を押され、結果的に参加することになった。
2007年4月、作者は20数年振りに水俣に“帰郷”した。4月29日にはかつての義母宅を訪れ、兄弟たちと抱き合って再会を喜んだ。30数年前漁師の一員となったが、その後訳あって疎遠となった。「子供を大きくしてくれて有難う」元妻の言葉に20数年間の空白が埋まった気がした。
再会を果たしたあくる夜、かつての親類・縁者が集まり、盛大な宴を催してくれた。
水俣でのシンポジウム等に数回参加するうちに、作者は今の水俣こそ記録すべきではないのかと考えた。モノクロ47点。
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