art space kimura ASK?古代中国の画論に山水、即ち風景画とは、ハンディーなサイズの画面に天地のあらゆる自然の営為を観る行いであるという言説がある。人はそこに想像力をめぐらせる。だから山水とは確固たる世界観を持った人格者の所産であったわけだ。
いま、我々の時代の芸術は遥かに卑近な存在となり、そこに世界との距離感など必要とされない。しかしここにきて、活動を始めたばかりの若い作家の制作をみていると、彼らは彼らの方法で、外界に対する尺度を持った表現が散見されるようになっているようだ。長かった、果てしない自己言及の時代が一応の終わりを遂げつつあり、新しいジェネレーションが姿を見せているのだろう。
ここで紹介する二人の作家も、自分たちを包含する外界の原理を測ろうとして、制作している作家である。佐藤綾の作品には数種のバリエーションがあるが、ひとつは、三本の画鋲が上向きに置かれ、その針の頂点に茶釜、杓、卵、はてはドラム缶が据えおかれる。トイレットペーパーに書かれて軸装された「無」の書といい、彼女の捉えようとする人と外界との関係性を呈示するのである。
丹野友貴は、糸と木片、時によっては紙片のプリントやわずかな言語を室内に点在させている。それらはいわば自然界の計測器具であり、彼女自身の言に拠れば「限りなく少ないことばで多くを包み込」みながら「削いで削いで、世界の輪郭を浮かび上がらせ」ることを目論んでいる。
彼女らがここに呈示するのは、彼女たちが嗜好する物体では決してない。わずかな間隙から、未知のものが、不可知であることを、呈示しようとしているように見えるのである。
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