3月28日から4月22日までトーキョーワンダーサイト本郷で開催されていたDouble Castおよび、その企画・運営を行っていたSurvivart(サバイバート)の活動は、その代表的な例だと言ってもいいだろう。Survivartは2004年にアーティストの岩井優を代表として始動したグループで、これまで日本の美術界ではなかなか語られてこなかった「お金」というキーワードに焦点を当てながら、ゲストを招いてのトークイベントや、メンバー自身も参加する展覧会などを実施してきた。
Double Castは「Cast」に「役」と「放送」の意をかけて期間限定の放送局というコンセプトのもとに企画されたもので、物事における2重性、すなわち時には見えにくい「もう一つ」の視点や手法に注目して、その可能性を提示することが目的とされていた。
企画はワンダーサイトで行う岩井優・田口行弘の2人展、そこで収録された映像や映像作品を動画共有サイトYou Tubeを用いて配信する特設サイト、毎週末会場で行われるトークイベントの3つの要素から成っていた。

岩井優の作品は、東京都文京区でびんゴミ・かんゴミの回収に用いられる2色のコンテナを用いて、アーティストや招待ゲスト、観客の対話空間をつくるもので、トークイベント開催時などにはフレキシブルにかたちを変える。

田口行弘の作品は、膨らませると空間いっぱいに広がる大きなビニール袋の中に机や椅子がセットされているもので、観客が中に入ることができる。袋はセットされている掃除機を用いて収縮することができ、人が中にいる状態のままでふとん圧縮袋のように空気を抜くパフォーマンスなども行われた。
会場の配布資料では、どちらも「Studio Set」として位置づけられていたことからも明らかなように、そのものだけでは成立せず、2人が配信用の映像を撮影したり、観客が加わって対話を行ったり、ゲストがトークを行ったりと何らかの活動を行う「場」として提示されている点が共通している。
また同時に注目しておきたいのは、You Tubeを用いて連日配信された動画だ。特設サイトでは、ニュース番組風に撮影された「キョーのトーキョー」を主なコンテンツとして連日動画が配信され、現在でもインターネット経由でその内容を見ることができる。
「キョーのトーキョー vol.17」これは私の予想に反して、それぞれの作品についての解説を加えるなどといったかたちで展覧会を補完したり、あるいは会場の全容を見せて現場で展覧会を見る行為の代替となるようなものではなかった。
むしろ画面の中では、岩井と田口がふざけあいをしたり、天気や食事といったあたりさわりのないことを話題にしたり、イベントの集客を心配したりと、全て視聴するには耐えない会話が繰りひろげられている。
それでもつい毎日サイトを覗いてしまったのは、一方的にアートを鑑賞したり、アーティストの思想に触れるだけではもの足りず、別の形でコミュニケーションをとってみたり、単純に現場とつながっていたいという思いが観客としてもあったのかもしれない。
岩井いわく、内容はわざとそのようにしていて、結局は現場にも来てみないと全ては判らないという状況を生み出したかったとのこと。これはそのまま、2重性を大事にして物事の別の側面にも注力してみようといった姿勢を反映したものと言えるだろう。
毎週末行われたイベントでも、毎回「~から考える」といったかたちでタイトルを変え、多様な側面からのアプローチをしていた。

このように様々な形で観客が関わることができたり、対話を重視しているプロジェクトは確かに同時代性を強く感じることができ面白いのだが、一方では作家の表現とは何なのか、といったことを考えてしまう。
コミュニケーションにおいても一元化、効率化が進む現代において確かにアートを用いた「場」そのものをつくりだすことは重要だろう。しかしそれは果たしてアーティストに求められている仕事の全てなのか?
あまりにもその「場」づくりに寄った「展覧会」を見て、感心しつつも同時に疑問が残ってしまった。
ところでこのDouble Castは、トーキョーワンダーサイトが行う若手キュレーター支援プログラムである「Emerging Artist Support Program 2006 展覧会企画公募」の第1回入選企画のひとつとして実施された。
同時に行われたのが、やはり入選企画でホワン・サンサン企画による華・非・華と、推薦枠によって選考されたというパオロ・プロテガー/大竹かおり/谷川公朗の企画・制作・キュレーションによるVideo Art from Londonである。
若手キュレーターの活動する場が非常に少ない日本において、アーティストだけでなく、キュレーターにも「Emerging Artist Support Program」の門戸を開いたトーキョーワンダーサイトの姿勢は評価に値する。
しかしいくつか疑問に残る点がある。
まずはなぜ2006年12月の下旬(メールニュース配信は12月28日)に公募開始、2007年1月17日応募締め切りという非常に短期間での募集、しかも2回の選考を経て3月下旬に実施という常識では考えられない準備期間しか設定されていなかったのかという点。
当然このようなやり方では公募が認知された頃には締め切りがきているので、応募数が減るのは当然として、質の高い企画などを望むことはできないだろう。さらに決定後2ヶ月で展覧会を実現するというのだから、キュレーターだけでなく、キュレーターの企画のもとに作品を制作するアーティストも大変だ。
その結果としてよいものができなかった場合はそれこそ悪循環で、若手をサポートどころか企画の枠組みによって振り回し、苦しめるという状況を招いてしまうだろう。
また公募や選考結果が発表された時点では全くその存在が知らされていなかった「推薦枠」の存在も不可解だ。なぜ海外キュレーターの企画(コーディネート企画)なのか、ロンドンのビデオアートなのかといった疑問はさておき、誰の推薦で、どのような過程を経て選考に至ったのかという経緯くらいは発表してもいいように思える。
最後に細かいことではあるが、公募の時点では会場の利用方法の条件について「展示スペースは1FのスペースA、2FのスペースB、もしくは3FのスペースC、Dのいずれか1つ」となっていたのに、公募入選企画であるはずのDouble Castの会場にはスペースCとDの両方が用いられていた点だ。想定されていない使用方法(※)である。
※筆者の誤読の可能性もある。長内氏のコメントを参照(2007年5月2日)
このような公募において、特に初回であるし方針や手順などに多少のぶれがあることはしょうがないだろうが、公平性には留意すべき都立の施設であるだけに気になる点であることを言っておきたい。応募者のやる気や想像力を引き出すためにも、次回以降は万全の体制で臨んで欲しいものである。


白坂ゆり
2007-04-30
例えば「お金」の問題であるとか誰かが声を挙げることは必要なのだろうと思います。けれど、環境づくりといった政治的な手段で作家として生き残ろうとするのはどうなのか。そこにこだわる覚悟があるのならば、税金の使い方について批判が上がっているときに、これなら行政の助成も必要だと理解を広げるような作品やプロジェクトでなければならなかったはずだし、完璧ではなくてもそこにプレッシャーを感じる作品になったはずではないでしょうか。
ビンカンの旧坂本小学校での展示を知っていれば、審査は通貨しなかったのではないかと思います。
橋本誠
2007-04-30
旧坂本小学校の展示は知らなかったので、基本的に見たままの感想でした。
>これなら行政の助成も必要だと理解を広げるような作品やプロジェクト
主催者側は状況に対して当然ナイーヴになっていたでしょうが、企画の選考過程において、そのような視点が重視されたかどうか果たして知るところではないですね。
いずれにしても、意義ある企画が応募されるよう、枠組みを工夫していただきたいものです。
岩井優
2007-05-01
以下の文が非常に気に入りました。
「コミュニケーションにおいても一元化、効率化が進む現代において確かにアートを用いた「場」そのものをつくりだすことは重要だろう。しかしそれは果たしてアーティストに求められている仕事の全てなのか?」
「場」そのものをつくりだす、という一文は置換可能だろうか?と。
展覧会企画公募の問題点は本当に色々ありましたね。特に僕は期間の問題が大きかったと思いました。準備するまでの時間、「広く」伝えていくための時間。ある種、「それも課題なのかっ?!」と思いつつ、応募したからには腹をくくるしかないよな、と思った次第です。
>白坂さん
コメントありがとうございます。白坂さんが指摘されている「環境づくり=政治的手段」というのは広義の意味で確かに正しいと思います。であるならば、政治的ではない手段というのはどのようなものか、教えていただければ幸いです。
それから「作家として生き残ろうとする」ならば「これなら行政の助成も必要だと理解を広げるような作品やプロジェクトでなければならなかった」。まずは好意的に受け取りたいと思います。がんばります。
ただ気になったのは「批判があがっている」からではないでしょう、という点と、今回僕が取り上げたかったのは、私たちとメディアの関係なのです。都の建物であり、選挙期間中にも関わらず、メディアと政治(または利権)のつながりをトークの場で繰り広げたのは偶然ではないし、また、毎日会場に足を運んでいたのはメディアと自身に対してセンスティブな人と少しでも話がしたかったからでした。(それだけに時間の都合上会えなかった人は残念でした)
ぜひぜひ、毛嫌いせずに、トークに来ていただければ、と思います。ま、白坂さんが通ってしまうほどの魅力的な展示、イベントの場にしろ、ということですよね?
>ビンカンの旧坂本小学校での展示を知っていれば、審査は通貨しなかったのではないかと思います
出だしが「お金」で締めが「通貨」・・・ありがとうございます。
岩井優
2007-05-01
すいません。上のやつ、URLが間違っていました・・・
山下守
2007-05-01
失礼します。
通貨ではなく通過です。
頑張れライター!
展覧会・作品を見てないので、このレビューを読ませていただいた上でコメントさせていただきます。
もちろん、この展覧会の特設サイトを拝見させていただきました。私の感想としては、挙げられてる映像を見たら、会場へ行ってみたいという気分になりました。終わってしまって見に行けないのが残念です。その点から考えますと、彼らの言う、「二重性」ということは理解できます。
コメントへのコメントなんですが、白坂さんが言う、「環境づくりといった政治的な手段で作家として生き残ろうとするのはどうなのか。」ということに関してすごく気になります。 文面から見ると、「・・・どうなのか」=「・・・駄目だろ」と読めますが、それは、そういう作家、アーティストなので、良いのではないのでしょうか? では、もの作りの美術として例える、絵画や彫刻は政治的ではないのでしょうか? 私が知る限りの西洋美術においては、作家自身のかなり政治的な動きが見れると思います。むしろ、今、我々がよく目にする昔の作家陣ほど、その時代に政治的な動きをしていることと思います。もちろん、すべての作家とは言えませんが。つまり、今に始まったわけではないということです。
もうひとつ、「そこにこだわる覚悟があるのならば、税金の使い方について批判が上がっているときに、これなら行政の助成も必要だと理解を広げるような作品やプロジェクトでなければならなかったはずだし、完璧ではなくてもそこにプレッシャーを感じる作品になったはずではないでしょうか。」
というのは、作品をつまらなくさせると思います。作家が、そんなちっぽけな理解を広げるだけの作品なんで、少なくても私は見たくないです。むしろ、その逆でこのようなプロジェクト・展覧会が今回、行政の場所、資金で出来たところに私は可能性を感じます。
しかし、応募等の枠組みに関しては、行政に利用されてる側とも言えるので、なかなか難しいところですね。なので、そういった意味では、いかなる展覧会、作品でも、あの場所でやる限り、政治的なことと関わってくると思います。
橋本誠
2007-05-01
岩井さん、山下さん、コメントありがとうございます。
それぞれに一理あるご意見だと思います。
岩井さんご指摘の『「場」そのものをつくりだす』という一文ですが、文脈上強引なまとめになっていることご了承ください。ご理解いただいていると思いますが。
山下さんがおっしゃられてるように、このような枠組みで企画を行うこと自体にも意味が出てきますし、作品/作家は自立性を保つことが難しいでしょう。
そこでいかにバランスをとることができるのかどうかが、キュレーターの役割なのだと思います。
そのような意味では、どちらかと言えばアーティストイニシアティヴのグループであるSurvivartの企画が選ばれたこと自体が(キュレーターの企画が残らなかったという意味において)残念でした。
レビュー中に明記すべきかどうか迷ったのですが、実は私もキュレーターとしてこの企画公募には応募しました。
時間がなかったので現実的に無理のない個展プランで応募し、残念ながら2次審査で落とされてしまったのですが、本レビューのスタンスとしては、情報は開示されたものだけを使って、応募しなかったとしても同様のことを考えただろうと思う範囲で書きました。
もちろん腹いせなどではなく、純粋に今後のためを思ってのことです。
あとはあくまでもDouble Castに対するレビューがメインですので、そこに対して変にイロをつけたくなかったというのもあります。
補足までに。
田口行弘
2007-05-01
お、盛り上がってますねぇー。
レビューありがとうございます。
まぁ、問題や意見がいろいろでいますが、それらに関しては、バシバシ行動で提示していきたいと思います。
ありがとうございます。
野坂栄一郎
2007-05-01
「これなら行政の助成も必要だと理解を広げるような作品」の「理解」というのは「納税者の理解」のことでしょう。
それが「そんなちっぽけな理解」で「作品をつまらなくさせる」としか考えられないようなかたは、行政の手を借りずに活動なさったほうがいいんじゃないでしょうか。
今回展示を行った作家さんも、都の施設を使うにあたって、そのような意識で応募なさったのでしょうか?
もしそうであるなら、結果的に審査が間違っていたということになるでしょう。社会に対する考え方、「おおやけ」(公共性)に対する意識が非常にナイーブだと思います。
大西(穴薪ペインティング)
2007-05-01
コメントさせて頂きます。
岩井さんの作品が「場」を作る事というアートフォームかどうかは知りませんが、そのアートフォーム自体を批評にするのではなく作品といして受け取って、それでどうなのか?という批評の方が業界全体にとっても有意義な気がします。
というのも、「政治的」ということであれば現状の日本の現代美術の業界もかなりの村社会で(それを批判するのがコメントの目的ではないけど)現場のあり方をローカルにすすめていこうとする岩井さんやサバイバートの方法論に関してはネガティブになる事自体、閉鎖的で野坂さんのいわれている「公共性」というか、アートファンやアートマーケットを日本につくっていこうとする者なら、今その閉鎖性は必要ないものだと考えるからです。
岩井さんが参加作家としても、キュレーターとしてもかかわっているため、批評がどっちにかかっているかが微妙ですが、、
とにかくどんどんキュレーターやライター、ギャラリスト、アートに新規参入者もっともっと増えていって貰えればと切に願います。
長内綾子
2007-05-01
Survivartの長内です。まずはレビューありがとうございます。そしてコメントしていただいたみなさんもありがとうございます。PR担当として、みなさんからの反応があることが、一番嬉しいです!
さて、いくつか誤解もあるような気もしますので、色々とお返事したいのですが、ここに書くと長くなってしまいそうだったので、自分のブログに書いておきました。お時間あればどうぞ。
橋本誠
2007-05-01
引き続き皆様、コメントありがとうございます。
Survivartは今回、けっこう戦略的だったように見えました。いろいろ書いていますが、このような議論を呼ぶという意味においては優れた作品/展覧会だったのだと思います。
長内さんのブログの方で、公募条件の展示スペースについて、Survivartは3FのスペースC、D両方使えると理解し応募したとのことが書いていありますが、なるほどどちらともとれる記述だと今気づきました。
いずれにせよ分かりにくいので、このままにしておきます。
白坂ゆり
2007-05-01
橋本さんは、審査に対して問題提起をしているのに、私が少しそらしてしまったかもしれません。今回に限らず、単発的なプログラムの問題については、別に書かないといけないのだろうと思います。短いプログラムが年度を越えて重なっているということは確かにあるのですが。ものづくりと時間のことは、アートに限らず、ますます大きな課題だと思います。
岩井さんからご質問があったので、補足します。その前にトークを全然見に行っていないことは申し訳なく思いますけど、美術手帖の「アーティストになるには」特集でも岩井さんに寄稿をお願いするとよいのではと提案したんですが、あの原稿には賛同しています。
例えば展覧会活動は、チラシひとつ見ても、そのテキストの内容だけでなく、どのような場所で誰が主催するのか、会期の長さ、時間、料金、助成など、そこから政治性、経済性及びそれらへのアプローチも読み取れるように、骨組みをつくるところから、芸術性と政治性と経済性は絡まって発生していると思います。
TWSの運営については、主に都知事に向けて昨年からずっと共産党から批判されていますが、この展覧会企画公募が上がった時期にも話題になっていました。
審査員のうちの一人もそれについて記事を書き、審査料はもらわずに企画に提供すると態度を示されていました。企画内容は、そのような状況に直接アクションしなくてももちろんいいわけですが、サバイバートの日頃の活動からすれば、むしろ好機であったのではないかと思います。反対している人との対話がそこでもたれてもいいわけだし。
イベントもまめに行っているし、ローカルメディアづくりには成功していると思いますが、メディアをテーマにした展覧会であれば、YOU TUBEを現場に人を呼ぶためだけに留めたのはもったいなかったのでは。たまにベルリンの話やアンケートの振り返りなども入っていますが、個人が無料でメディアを持てることが最大限生かされていたか。行ってみないと現場がわからない現在形の価値だけではなく、消費されないようなアーカイブをYOU TUBEにおいても行ってほしかったと思います。
例えばテレビの3分にどれだけのコストがかかっているか、そこに意識的にただしゃべるだけにしたのかもしれないけど。二人のしゃべりは人柄もあって悪くないですけど、ラジオ的なフォーマットをなぞっているだけでは、例えば個人で大手にはのらない番組をつくってケーブルTVなどに売っている人に見てもらっても、創造性においても食い足りないと感じるように思います。
白坂ゆり
2007-05-01
あと、行った人から「いや、よかったですよ」という意見があればそれでいいんじゃないかな。
ほかの展覧会でもいつもいろいろ出ればいいですよね。
林かなこ
2007-05-02
横やり失礼いたします。
この展覧会のトークイベント、展示、何度か拝見させていただきました。個人的な感想ですが、観客にとってアートが開かれてる感じがしました。ただ鑑賞するだけではなく、考える。ほどよい緊張感があり、いい感じでした。それぞれが自分も参加している意識を持って参加することも、アートへの関心と理解を広げるきっかけなっていくのではと思います。作り手だけが頑張れば済む問題ではありませんので。
コメントへのコメントなんですが、岩井さんからの質問に対して白坂さんの補足のコメントは質問に答えになっていないのでは。
>あと、行った人から「いや、よかったですよ」という意見があればそれでいいんじゃないかな。ほかの展覧会でもいつもいろいろ出ればいいですよね。」
このような発言はなんか寂しいですよね。このような発言をされること自体、普段から作り手に対してどのような考えでいらっしゃるのかと思います。
岩井優
2007-05-02
コメントが伸びてる!
>白坂さん
補足ありがとうございます。ただ、お聞きしたかったのは「政治的ではない」手段ってどんなことがあるのかな?と思ったからでした。僕は「すべては政治的なものである」というスタンスです。だから、DMも作らず、助成もとらず展覧会をしたとしても政治性は存在するだろう、と考えています。
白坂さんが指摘しているのはクウォリティの問題ということに収斂されていくものでしょう。そこは橋本さんがレビューに書いているように、僕は今回それを問題としなかったのです。というか、真逆で行こう、と。また来場者を呼ぶため「だけ」に映像を流していたわけではありません。では何を問題としたのか?会場とWebの2重(Double)のサイトに発信(Cast)していくことによって、実体と情報に関わるメディアそのものを、私たちが当事者として捉えいくことは可能だろうか?ということでした。だからこそ、一般メディアとは真逆の、そして誰もがアップロードできるようなコンテンツにした、ということだったのです。そしてビンカンを使ったのも、その意味においてでした。
さて、TWSの運営問題ですが、もちろん、僕は好機だと考えました。そして白坂さんが指摘されていた点もプランニング時には入っていました。が、選挙期間中、都の建物で政治的な話し合いをするのは公職選挙法に引っ掛かる、とのことで、チラシ、その他のメディアには何も載せることができなかったことを付け加えておきます。
白坂ゆり
2007-05-03
>林さん
「いろいろな意見が〜」という追加コメントは、私も余計だったなとすぐ思いました。すみません。
観客の方でよかったという方の意見も聞けたらいいなと思ったのです。少し内側に足を踏み入れてアートへの関心と理解を広げるという役割意識をもった方ではなく、まだ接し始めたような方のような。そこまで行かずに、いろいろ疑問を抱きながらも自分のなかで考えているような。2年間週末に展覧会の出口でアンケートを取ったことがあり、そこに言葉の発見があったものですから。
>岩井さん
言葉足らずですみません。
チラシひとつとってもわかるように〜という部分は、どんな展覧会にも言えることです。
展覧会活動では、ある目的に向かってものや作家が選ばればれたり、空間がつくられたりすることからも政治性がないものはないと私も思います。たぶんそこは同様の意見なのではないかと思います。
政治性、経済性、芸術性の度合いまたは比重やどれがどれに影響を及ぼし働き合うかは、それぞれに違うように思います。
表現活動においても、政治性、経済性、芸術性の比重や働き合いがそれぞれの作品や作家によっても違うように思います。つくり手のなかには、政治や経済の概念がない知的障害をもった方もおられます。その場合、周囲のプロデューサーとかデザイナーとかが引き受けています。純真無垢とかいう話ではないですよ。
アーティストと名乗っていない方も含めてつくり手の方は、政治や経済が現世利益だとしたら(これも誤解を招きそうですが)そういうものが登場して来ない、その時点では他者との関わりでもない、クオリティとか何も関係ない、何かどこかに通じてるとしか言いようがないところから掘り出したり、そこに投げてみたりするということがあるということを知っているように思います。でもこれは森の中の血管みたいにわずかな差で幾筋もあるような気がします。
私にはまだわかりません。間違っていたらごめんなさい。
私はフリーでライター活動をしている9年の間に、作品を見たり、作家の方たちと話をするなかで、作家の多くは本音では作品について自ら語りたくはないというか、できれば作品を送り出して、ものに語らせたいんだなと思うようになりました。あるいは、作品を間に挟んで、他人を語るようにだったらいい。
作品は、日常使う言葉からつくられるのではないから、自分でもわからないところがあるのに、定義付けしてしまうとそこで固まって動かなくなるようなことがあるんだろうと思います。
でも言葉もさがさなきゃなりません。
また、生活のなかでは直接コミュニケーションすることは大事だけど、ものを通じた間接コミュニケーションに時間をかけることに意識的になるともっといいと思うんです。まさに子はかすがいで。
作家が、子ども(作品)を社会に送り出して、あとはその子どもにどんな生涯が待ち受けていても手出ししない、そういう水際に立てるように、私も含め見る側ががんばらないとならないし、そういう作家に惹かれるのだと思います。
ただそこに作品を置くことは、ホントは開かれていると思います。ものはしゃべらないから難しいですけど、何年も寝かせて考えます。
私は美大などの専門教育は受けてないので、その分間違いや不勉強もあると思います。展覧会を見たり、つくる側に混ざったりするなかでなので。
今回の作品については誤解もあったことがわかりましたし、岩井さんはまだいろんなことを試している時期なのだということもわかりました。
私のこれまでの文は作家を支持したり、意図になるべく沿おうとしたものが多かったのですが、そのなかでもギャップを示した方が、読む人にとっても開かれるということを考えています。今回はまるでだめでしたけど、
自分の仕事であるメディアのなかで、また訓練してもいいですかね?
また答えになっていないと思いますが、今回はこれで。
長くなってすみません。
岩井優
2007-05-06
>白坂さん
本当に丁寧なレス、ありがとうございます。真摯な言葉に色々考えさせられました。
僕は白坂さんがお考えのように「言葉以上の何か」に期待をして、あるいはそれしかなくて、アートというフィールドを選んでいるように思います。
また、アーティスト(を目指す人も含めて)には様々なタイプがあるように思います。それは白坂さんもご存知だと思います。作品を作って何も語らない人、問われれば答える人、本を出す人、レクチャーをする人・・・。色んなあり方があって良いのだろうと思っています。
さて、少し脱線して、なんで現代美術なんだろう?と考えてみます。古代から、古典から、近代から、様々なジャンルがあるなかで。もちろん「同時代性」の感覚、感性といったことは重要でしょう。あるいは文脈の中でカッティング・エッジとしての現代美術。いろんな切り口があるように思います。そして様々な切り口の1つに「今、作家が生きていること」も含まれるのではないでしょうか?対話(コミュニケーション)可能である、ということ。これは古典とか近代とかにはない同時代の美術の特徴であるように思います。
話しを戻して、白坂さんがおっしゃっている「間接的コミュニケーション」について。確かにその通りだと思います。付け加えるならば、僕は「もの」だけではなく「こと」も含めて時間をかけ意識的になれたら、と思っています。
今回、白坂さんが投げた問いかけ(あえて問いかけと言います)は、とても嬉しかったです。それは非常にストレートな言葉(問い)だったこと、メディアが参加可能なブログであったということです。ブログでのコメントというライターの人にとっては利益になり難いにも関わらず書かれたことは、本当に嬉しいですよ。だって、美○手帖に書かれても、なんのやり取りもできませんからね!
だから、どしどし書いていって下さい。雑誌でもWebでも。僕もどしどし作っていきます。まぁ今みたいなことは、叩かれるのを承知の上でやっているので、へこたれずにやっていきます。
橋本誠
2007-05-09
白坂さん、岩井さん、ありがとうございました。
コメントというかたちで皆さんの感想を聞けたことは、私にとっても勉強になりました。
今後も何かあれば、気軽に書き込んでくださいね!