公開日:2007年7月25日

静寂の音-ジャウメ・プレンサとのインタビュー

彫刻、パブリック・アート、舞台美術など、幅広い分野で活躍するトップ・アーティスト

展示風景
展示風景
写真:菅谷守良

タイトルの「サイレント」(静寂)と「ヴォイス」(声)は少々逆説的のような気がしますが。

私は以前からずっと言葉を作品に取り入れてきました。言葉は常に我々の周りにあるというのが私の主な考えです。人は身体の延長として、外界に思考や アイデアを放つために言葉を使っているのです。なので、身体というのはとてもうるさい有機体です。「サイレント・ヴォイス」(静寂な声)というタイトル は、私たちが静寂だと思っているものは実はそうではないという考えに基づいています。なぜなら、身体はまるで絶え間ない会話をする声のように常に音を出し 続けているからです。しかし、態度や赴きは静粛なんです。

床に座っていて表面に言葉が書かれている石の身体が展示されています。この言葉は内側から溢れ出ているのですか? それとも何ものかによって外部から表面に刻まれたものなのでしょうか?

展示されている彫刻には様々なものの名前がリストアップされています。金星のクレーター、身体の部分、などなど。これらは、人生が常に我々の身体に 入れ墨を入れているというコンセプトを比喩的に表しています。毎秒、一瞬一瞬、経験が肌に刻まれるのです。しかし、そのインクは透明です。ある日突然、そ の透明な文字が読めて、感想を言ってくれる人に出会うかもしれません。

なぜ金星のクレーターの名前を一つの彫刻に記載しようと思ったかと言うと、金星が官能性やエロスと深く関係しているからです。私は以前からこの星を気に入っています。金星のクレーターは全て女性の名前が付けられているのに対して、山は男性の神の名前が付けられています。

ジャウメ・プレンサ 「三美神 IV」 (2005) ポリエステル樹脂、ステンレス、照明、120 x 158 x 206cm
ジャウメ・プレンサ 「三美神 IV」 (2005) ポリエステル樹脂、ステンレス、照明、120 x 158 x 206cm
写真:菅谷守良
ジャウメ・プレンサ 「トーキョーズ・ソウル」 (2007) ステンレス、223 x 245 x 255cm
ジャウメ・プレンサ 「トーキョーズ・ソウル」 (2007) ステンレス、223 x 245 x 255cm
写真:菅谷守良

しかし、彫刻自体を見てもこの官能性やエロス的な面は見受けられませんね。どの彫刻も見た目は同じ感じがします。

これらの彫刻は自画像なんです。我々の肌に刻まれる入れ墨が何を意味するのかは、決して明確ではありません。私は、一つの容器から多量の情報を静か に得ることができるというこの不思議な感覚が好きなんです。見た目は同じかもしれませんが、それぞれの彫刻に込められた意味は全く違います。展示にいらっ しゃったお客様には外見だけでなく、奥に秘められた意味を探っていただきたい。

彫刻は胎児のような姿勢で座っています。彼らは外界から身を守ろうとしているように見えますが…

いいえ、これは‘心の中’に向き合う姿勢を示しています。私の作品の多くは、このように外界ではなく内面をもっと直視しなければならないというアイ デアを追求しています。一般的なことを想像するには、まず自分自身のことを理解しなければなりません。胎児の姿勢、つまり母親の子宮の中での姿勢ですが、 これは最もこの考えを露にする形だと思います。決して何かを拒むような姿勢ではなく、どちらかと言えば自分の内面をより柔軟に受け入れることを表している のです。そしてより深く奥を探るうちに、他人の記憶、または集合記憶に触れることができます。我々は一つの一環した記憶を共有していると思うんです。ま た、自分自身を表現するうえで他人のことも表しているので、私の作品を見て安心感を得る人は多いのではないでしょうか。

ジャウメ・プレンサ 「セルフポートレート LXVII」 (2007) 紙にミクストメディア、41 x 30cm
ジャウメ・プレンサ 「セルフポートレート LXVII」 (2007) 紙にミクストメディア、41 x 30cm
写真:菅谷守良
今回展示されている中で唯一ご自身の身体をベースとしていないのが写真の作品ですが、この作品のコンセプトについて教えてください。

私は普通の自画像以外にも、“匿名性”のある自画像も作っています。ポートレートを見る時、それはそこに描かれていない他人を連想させたり、思い出 させたりすると思います。例えば、老人のポートレートを見て自分の祖父を連想したり、少年の絵が自分の息子と重なったり。このように、見知らぬ人のポート レートが鏡の役割を果たします。しかし、それは自分ではなく、他人を写し出すんです。このアイデアは私の作品に共通して見られるグローバル感や一貫性の象 徴です。我々一人一人が集団の代表だという考え。

大規模なパブリック・アートと、このようなギャラリーで展示される小規模の作品に取り組む時の違いはありますか?

このような展示の作品は自分、そしてギャラリーという空間のために作っています。それに対して、公共の空間ではその場所特有の作品を作るため、全く 違う態度で取り組みます。その空間の状況をよく理解し作品に反映させる;つまり、自分の趣味と、その場に必要であるものを融合させようとするんです。スタ ジオで作る作品はより私的ですが、パブリック・アートの場合は自分と他人の仲介役にならなければなりません。

プレンサさんのパブリック・アート作品は、国内では代官山アドレスや静岡文化芸術大学などをはじめ、世界各国にあります。国や場所によって空間的な特性は全く異なると思うのですが、このような違いはどの程度考慮して作品作りをしているのでしょうか?

確かにどの場所も独特ですが、私はどこにいても人間はそれほど違わないと思っています。例えば日本人は公共の場ではすごく礼儀正しいようですし、空 間や建物の構造に対する反応は社会によって様々です。しかし、人間の美に対する欲求や、日常生活をより詩的にしたいという願望は世界中どこも同じです。我 々は根本的に同じなんです。私はパブリック・アートを作るうえで多くの方々とコラボレーションをしますが、やはり違いよりも共通点の方が多いように思いま すね。

ジャウメ・プレンサ 「グラスマン V」 (2007) ガラス、色水、30 x 250 x 90cm
ジャウメ・プレンサ 「グラスマン V」 (2007) ガラス、色水、30 x 250 x 90cm
写真:菅谷守良
ジャウメ・プレンサ 「EN TI III」(エディション HC) (2004) ブロンズ、油、芯、9 x 19 x 28cm
ジャウメ・プレンサ 「EN TI III」(エディション HC) (2004) ブロンズ、油、芯、9 x 19 x 28cm
写真:菅谷守良

今回の「サイレント・ヴォイス」は日本で2度目の展示です。日本の観客にどんなことを感じ取ってもらいたいですか?

前回も身体に関する展示でしたが、どちらかというとその“不在”に焦点をおいていました。7、8年前のことです。今回も、身体を言葉、静粛、そして 振動の容器とするコンセプトは似ています。お越しくださった観客は私の自画像を通して自分自身の像を見出し、自分自身の“内面”と向き合うことによって世 界を理解する助けになればと思っています。今日の騒々しい世の中に存在するこの静粛な展示で、彼らが自身に秘められた言葉や静粛と対面し、身体から発せら れる音に耳を澄ましていただきたいと思っています。考えたり、静けさに浸ったり、または単にリラックスする空間であって欲しい。

ジャウメ・プレンサさん、ありがとうございました!

Lena Oishi

Lena Oishi

日本生まれ、イギリス+オーストラリア育ち。大学院では映画論を勉強。現在はVICEマガジンやアート/メディア関連の翻訳をはじめ、『メトロノーム11号—何をなすべきか?東京』(2007年、精興社)の日本語監修など、フリーランスで翻訳関連の仕事をしている。真っ暗闇の中、アイスクリームを食べながら目が充血するまで映画を観るのが好き。