『もの派』について

『もの派』の出現は日本の戦後美術市場におけるターニングポイントとなったにもかかわらず、その活動は想像以上に知られていない。

In 特集記事 by Ashley Rawlings 2007-09-08

『もの派』は、60年代後半から70年代前半に自然物と人工物を用いた作品を制作した作家のグループであった。「もの」をできるだけそのままの状態 で作品の中に並列して存在させることで、それら自体に語らせることを目的とした。それゆえに『もの派』の作家は何かを「創造」するというよりは、「もの」 を「再構築」し「もの」と空間との相互依存的な関係性に注目した作品を作り上げた。そしてある「もの」に対する既存の概念をくずし、「もの」との新しい関 係性を築きあげることに挑戦した。

関根伸夫 「位相 一 大地」 (1968年)

『もの派』は「芸術的運動」というより、あるグループに対して付けられた「ラベル」のようなもので、その起源ははっきりとしていない。(※1)『も の派』の作品は空間と「もの」との本質的に相互依存的な関係、または「もの」と「もの」自体の関係性に焦点を当てている。そして、鑑賞者に作品と向かい合 うことによって作品と自らの関係性を認識させることもまた『もの派』が作品創作の目的とするところである。

『もの派』は作家のグループであると述べたが、それは様々な作家の連結した関係の集積という程度の緩いつながりであり、一つのイデオロギー的なもの が全ての作家によって共有されていたわけではない。『もの派』の作家としては、関根伸夫、李禹煥(リ・ウーファン)、吉田克朗、小清水漸、榎倉康二、菅木志 雄、高山登、成田克彦が挙げられることが多い。以下にそれぞれの作家の代表作とその概念について簡単に説明をしたい。

Removing the mould from 'Phase - Mother Earth' 「位相—大地」から円柱形の型を外した瞬間

関根伸夫

『もの派』の誕生は1960年代の社会的、政治的、文化的背景によるところが多く、その経緯を詳細に辿っていくことは複雑困難であるが、しばしば 1968年の10月に関根の作品『位相—大地』が神戸の須磨離宮公園で開催された「第一回野外彫刻展」に出展されたことに始まるとされる。深さ2.7メー トル、直径2.2メートルに掘られた穴と、全く同じ高さ、直径に固めて作られた土の円柱で作られている。関根は、 円柱形の型を外したときのことをこう語っている、

「赤裸々な大地が固まって目の前に存在している、皆、物凄い現実の物 体の迫力に 声を失い、立ちつくしていた… 凸と凹の土魂の物体の迫力、 物性の強靱さに敬服した。静かな空寂とした時間の流れが感じられた… <モノ派>誕生の瞬間であった。」(※2)

当時の関根の作品において、位相幾何学は重要な概念であった。位相幾何学的空間が美術における「造形すること」を根底から揺るがし、形を固定のもの として考えずに伸縮変形が自在の「相」として捉えることを提示したからである。『位相』の作品シリーズは東洋の哲学、特に「禅」からの影響も受け、西洋の 数学と古代の東洋美学と哲学の希有な結合を成立させている。

李禹煥

李禹煥 「関係項」(1968年)

1968年11月、関根は間もなく後に『もの派』とその概念構成において重要な人物となる韓国生まれの作家、李禹煥に出会う。李禹煥は老子と荘子を 含むアジアの思想を学び、1956年に日本へ移ってからは日本大学で近代西洋哲学を学んだ。李は関根の前衛的概念を認め、作品を評価し、一方関根は李の中 に自らの作品と芸術に関する視点を支える思想家としての存在を見出した。

関根と同じように、李も石、ガラス、ゴム、鉄板、綿、といったような自然の素材を使い、それら自体の間の関係性を芸術的介入から独立した形で存在す ることを可能にし、物体の物質性を明らかにするように並列的方法でそれらを提示した。李の作品の中の『現象と知覚B』(1968年)(後に『関係項』と改 題)は大きな石の重みによってひびの入ったガラス板によって出来ている。この作品について、作家は以下のように説明している。

「偶然でもガラスの上に重い石が当ればガラスが割れる。これは当然な理である。だがアーティストの介在力の弱い場合、そこに見えるものは物理的なア クシデントの域を超えないだろう。アーティストの意図通りの割れ方も面白くないが、アーティストの不在の偶然性によるそれもつまらぬ 。アーティストと石 との呼応し緊張した関係によってなにごととかが起こらねばならない。そしてその三角関係の相互浸透による割れ目が出たとき、そのガラスははじめて作品とな る。」(※3)

菅木志雄

菅木志雄 「無限状況」(1970年)

李と同様に、菅木志雄の作品は「もの」の物質性より、むしろその「もの」の「状況」を描写する作品であった。他の『もの派』の作家の作品制作方法と 異なり、菅は物質と物質を対比させるような方法はほとんどとらなかった。それよりも、関係性やある組立てによってある「もの」のあり方を追求していると言 える。
彼の作品の中でも有名なもので彼のこの考えを表している作品はプラスチックの板の上に石が並べられ、宇部にある池に浮かべられてている作品、『状況律』 (1971年)である。『無限状況』(1970年)も同様に二種類の木材が対角線上に配置され京都国立近代美術館の階段の後ろにある窓を開け支えている作 品である。菅は繊細なバランスで木を置くことによって、観る者の注意を物体自体へ促すと同時に、それら物質の精密さ、そこに存在する力関係に気付かせる。 その状況は必然的に一時的なものであるが、同時に無形の全体的なものが感じられる。

榎倉康二

榎倉康二 「壁」(1971年)

1971年には「パリ青年ビエナーレ」で、榎倉康二は2本の木の間に 高さが約3メートルで、幅が約5メートルのコンクリート壁をわたす『壁』という作品を発表した。ニュートラルな空間への固い、身体的なこの介入は、2本の 木の相互関係へ注目を引くことだけではなく、その周りの風景との相互関係にも光を当てようとした。

榎倉にとっては、なるべく未加工な状態で存在する「メディウムとしての物質」が興味深いものであった。初期には、油や油脂で紙や壁を浸し、平面の物 質性を露呈することを試みた。自分自身と環境との相互関係を探ることを通し、自己を確認することが目的だった。「肉体と物との緊張感こそ私が探りたいこと であり、そしてこの緊張感が自分自身の存在を自覚しえる証しだと思う」と作家は語った。(※4)

小清水漸

小清水漸 「かみ」(1969年)

概念的には小清水漸の作品は李と菅、両者の作品と類似点を持つ。菅の作品のようにある物体に特有であるが、目に見えない資質に注目する一方、李の作 品のように彫刻の根本を露呈させる欲求と物体の物質性に対する意識のもとに、「もの」を並列させることによって表現している。彼の『かみ 2』(後に『かみ』と改題)(1969年)では、彼は大きな石を更に大きい片方だけ封が開いた状態の和紙の中に置いた。観る者は封筒の中をのぞき、内部の 構造と外部の形状という彫刻的な状況下に存在する純粋な石の大きさと堅さと覆い隠す紙の薄い膜との対比に直面する。(※5)

小清水漸 「70年8月石を割る」(1970年)「1970 年8月—現代美術の一断面」において展示された『70年8月石を割る』は小清水漸の代表的な作品の一点である。大きな御影石は東京国立近代美術館に運び込 まれ、そこで真二つに割られた。当時関根の『位相—大地』の制作を手伝った小清水は、並置を避けつつ彫刻の原点を探そうとしていた。石を割り、内部を露に する行為は、石そのものを見せるための手段として行われたのである。彫刻の構造を探る他の作品はとして1969年の『垂線』がある。ただひたすら床のある 一点を指し示す分銅とそれを支える天井からの垂直線、彫刻における制作の原点と、垂線という確かに意識する軸が、目に見える形で表現されている。(※6)

高山登

高山登 「遊殺」(1973年)

高山は他の『もの派』の作家と多少異なっている。それは、他の『もの派』の作家が物体を存在するそのままあるがままに提示する点と異なり、高山は明 らかに物体の間の概念的な関係性を提示していることである。高山の『枕木』作品は、既製の素材としての枕木を用いるのではなく、原料のブナ材、クレオソー トの用意から表面の焼き付けまで、高山自身の作品としての「枕木」を制作する為、一定の時間が費やされている。彼にとって枕木は、第二次世界大戦時の日本 の植民地で強制されていた労働についての暗示するものだという。高山は意識していなかったかもしれないが、このような多くの意味合いを含む素材をあつかっ たのは、反米、反ベトナム戦争の学生運動が多く行われていた、当時の不安定な社会と政治状況を反映しているものと思われる。

成田克彦

成田克彦 「SUMI」(1969年)

1969年「パリ青年ビエンナーレ」で最初に発表され、一躍成田の名を広めた『SUMI』は、大きな炭が一列に並べられた作品であり、「つくる」行 為を出来るだけ排除することが意図されている。木を炭化させることによって、創造の過程を自然に任せ、物質の存在感を際立たせた。しかし、彼の作品全体と しては「もの」の物質感ではなく、空間の認識に関する探求である。1969年春には「第9回現代日本美術展」で展示室の中の仕切り壁に鉄の帯を巻き付け、 村松画廊での個展では、画廊の中に仮設壁を設けて画廊空間を縮減しただけの作品も発表した。

最初にも述べたとおり、『もの派』はグループや運動といった緩やかな形でしか定義することはできない。これまで述べたのはそれぞれの作家の活動のほんの導 入的な部分でしかなく、更に考察を深めるとそれぞれの作家の技術や概念アプローチの違いがはっきりとしてくる。戦後の日本美術史に関する研究が広められる につれ、美術史家や評論家は『もの派』という現象の形成、定義、発展に関して議論をするようになっている。皮肉なことに、回顧的な議論や言及が『もの派』 に対してされるほど、作家が当時言っていたことと現在語ること、その他の人々が当時語ったことと現在語ることの間に相違が生じ、時に真実のところを見えに くくしている。2005年10月から12月まで大阪の国立国際美術館で開催された「もの派—再考」展と今年5月に東京画廊+BTAP(北京)で開催された 「What is Mono-ha?」展は、日本現代美術史における『もの派』を取り上げた最近の展覧会である。『もの派』をどのように定義するかということに関しては様々 な議論がなされるにしろ、『もの派』の出現が日本の現代美術とその表現に大きな変化を生むきっかけとなったことは明らかである。

「もの派—再考」のカタログに中井康之が書いた通り、「1968年まで、あるいは1969年を含めて、戦後のあるいは近代以降の日本美術の変遷は、 その多くが欧米の追随でしかなかった。優れた個人の作家たちが、個々の実績を積み重ねる他に方法が無かったのである」。『もの派』はそれ以前の欧米の前衛 芸術を否定し、『もの派』以降の世代の芸術活動に道を開いたと言える。ジャネット・コプロスが「The Two-Fold Path: Contemporary Art in Japan」の中で説明するには、70年代中盤の多くの若いアーティストは『もの派』を否定し、制作、色、主観へと向かっていった。(※7)そのような転 換は一つの決まりきったことのようであるが、日本の若手の作家が西洋の芸術に対してではなく、具体的な日本の芸術活動を標的にしたという点でそれは日本の 現代美術史の中で重大なターニングポイントであったといえるだろう。

※1 – Tatehata, A., (2001) ‘Mono-ha and Japan’s Crisis of the Modern’ in Mono-ha, exh. cat. Cambridge: Kettle’s Yard.

※2 – Sekine, N., Aru kankyô bijutsuka no jiden, unpublished manuscript.

※3 – Munroe, A., (1994) p.265, Japanese Art After 1945: Scream Against the Sky, exh. cat. New York: Harry N. Abrams, Inc.

※4 – Okada, K., (1995) p.55, ‘Gendai bijutsu he no toi: busshitsu kara no tankyû to monoha wo megutte’ in 1970nen – busshitsu to chikaku: monoha to kongen wo tou sakkatachi, exh. cat. Tokyo: Yomiuri Shimbun & The Japan Association of Art Museums.

※5 – Groom, S., (2001) p.15, ‘Encountering Mono-ha’ in Mono-ha, exh. cat. Cambridge: Kettle’s Yard.

※6 – Okada, K., (1995) p.105, ‘Gendai bijutsu he no toi: busshitsu kara no tankyû to monoha wo megutte’ in 1970nen – busshitsu to chikaku: monoha to kongen wo tou sakkatachi, exh. cat. Tokyo: Yomiuri Shimbun & The Japan Association of Art Museums. Matter and perception 1970 mono-ha and the search for fundamentals

※7 – Koplos, J., (1990) ‘The Two-Fold Path: Contemporary Art in Japan’ in Art in America, New York: Brant Art Publications, Inc.

和訳:手銭和加子

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