公開日:2008年6月1日

杉本貴志 「水の茶室、鉄の茶室」

鑑賞者の身体と空間のコミュニケーション

茶室を2つ、見に行った。「茶室を見る」というのだけでは少し言葉が足りないのかもしれない。茶室として設えられた空間に静かに身を置くことによって、自分を取り巻く外部環境への眼差しが解放される。そしてその眼差しは回り巡って自分自身へと回帰してくる。そのような感覚を体験してきた。
1つは「鉄の茶室」、レーザーで部材を切り抜いた後の鉄板といったような廃材を用いて作られた空間、もう1つは「水の茶室」、上下に張られた無数のワイヤをつたう水滴が空間を形作る。

《鉄の茶室》2008年(1993年に制作されたものを本展のためにリサイズして再制作した)
《鉄の茶室》2008年(1993年に制作されたものを本展のためにリサイズして再制作した)
Nacasa&Partners Inc.

最初の展示室には「鉄の茶室」が設置されている。靴を脱いでにじり口を通り中に入ると、まず、足の裏に伝わる茣蓙(ござ)の感覚が心地よい。この茣蓙はイグサで作られているが、普通の畳よりずっと荒い触感である。
実際のお茶席に参加した人からは「正座していると痛い」といった感想もあったそうだ。しかしそれは素材そのものがもつエネルギーを直に感じることが出来る、モノの存在感を知ることを通して自分自身の存在が照射されるような「好ましい荒さ」として感じられた。

《鉄の茶室》2008年(1993年)
《鉄の茶室》2008年(1993年)
Nacasa&Partners Inc.
前述したように「鉄の茶室」では茶室の壁などを形成するのに鉄の廃材が利用されている。
部材を切り取るなどの合理的で経済的な目的を達し終えたあとの、もういらなくなった鉄くず。そこに何の価値も残っていないなどということは全くないということを、見る者は知ることになるだろう。
様々な連続模様という形状、そしてそのモノが鉄板として作られ、使われ、廃棄されてから経った時間というものを感じさせる若干古びた質感。それらは魅力的な表情を持ちながら見る者のそばに在る。

上階の展示室に入ると「水の茶室」がある。「鉄の茶室」がモノの質感を通して空間や自分自身の存在というものを感じることが出来る「質感の茶室」であるとすれば、こちらは「浮遊感の茶室」と表現するのがふさわしいか。
片方が地に足を付けた空間であり、もう片方は天に浮かぶような幻想感を味あわせてくれるという見事な対比になっている。


暗くした展示室の中で優しい明るさを持ったライトを浴びながら無数の小さな水滴が滴り落ちてくる。
その美しさには思わず息を呑む。次々と落ちてくる水滴のスピードは不思議とゆっくりで、傍によって見上げていると、雨が落ちてくるところをスローモーションで見ることが出来ればこんな風に見えるのではないかと思わされる。ゆっくりと降り続く雨を見ているといつもの生活の中で感じる時間や重力の基準から柔らかく解放されることであろう。

《水の茶室》2008年
《水の茶室》2008年
Nacasa&Partners Inc.

これらの2つが「茶室」として作られたということは、本来ならばここでお茶席を設け、この空間に主人と客の人間関係という「間」を重ねあわせることによって作品が完成するのかもしれない。
実際にこの中で何度かお茶席がなされたとも聞く。だがこの空間にはそういった制約に縛られない、自由な味わい方を許容する開かれた魅力がある。鑑賞の仕方を制限するなどということは作家の、またこの作品に内在する魅力の本意とするところではないだろう。
この空間の持つ力を感じるには実際にその中に自分の身体を運んで感覚を澄ませることが一番である。お茶席の有る無しに関わらず、この茶室と名づけられた空間に靴を脱いで入り、心を少しばかり解放してみるのはいかがであろうか。

Hana Ikehata

Hana Ikehata

物心ついて一番最初に経験した「美術に触れて息が止まるほど感動した瞬間」は、中学生の時、パリのルーブルでサモトラケのニケを見た時。若かりし頃、失恋の奈落の底で見た雪舟の天橋立図は周りの誰の慰め言葉よりも心に清々しい風を吹かせてくれた。東京大学卒業後、数年ほど、しがないサラリーマンをする。美術は趣味と割り切って生きるつもりだったが、自分の持てる時間は有限であるということに気付き、限りある人生をめいいっぱい使って大好きなことで奮闘したいと思い、突如「美術ライター」を志す。「美術と人をつなぐ仕事」なら何でも挑戦してみたい。「いわゆる日本画」「日本美術」「ちょっと古いもの」とカテゴライズされる作品群に好きなものが多いと感じている。 <a href="http://ikehatahana.blog116.fc2.com/">ブログ</a>のんびり更新中