公開日:2024年4月26日

濱口竜介監督作『悪は存在しない』レビュー:人間の内と外をつらぬく自然と悪の寓話(評:石倉敏明 )

映画『悪は存在しない』が4月26日よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国公開。豊かな自然を舞台にコロナ禍の社会と人や動植物の生を描いた本作を、芸術人類学者の石倉敏明がレビュー。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督による最新の映画『悪は存在しない』が4月26日より公開される。音楽家の石橋英子がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから始まった本作は、第80回ヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞するなど世界的に大きな注目を集めている。

長野県の自然豊かな高原に暮らす父娘を中心に、コロナ禍以降の社会の日常をも描いた本作。アートとエコロジー、動物について研究を重ねてきた、芸術人類学者の石倉敏明は本作をどう見るか?【Tokyo Art Beat】

美しい自然描写

弦楽器の印象的な音色が何層にも絡まり合い、冬の澄んだ陽光の漏れる森林の樹冠が映し出される。濱口竜介の『悪は存在しない』は、そうした美しい自然描写から始まる。石橋英子による静謐な緊張感を孕んだサウンドは、全編を通じてこの森林に棲む目には見えない生物たちの活動を感じさせてくれる。とはいえその光景は、決して手付かずの野生的な自然ではなく、日本の山村に特徴的な、その土地に暮らす人間との長期的な関係性を滲ませている。重要なことは、人間と自然の対立ではない。人間であれ、動植物であれ、そこに映し出されるものたちが、同じ土地の恩恵によって生きているということ。私たちが同じ陽光、同じ水、同じ土を共有する生命環境の一部であるという手垢のついた常識を、この映画は私たちの喉元にあらためて突きつける。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

しかし、日本の田舎に細々と生きている人びとの生活に、大都市や大企業の論理ではない、別の物語が潜んでいるという常識に、今更どれだけの意義が認められるというのだろうか。この映画を牽引するある種の不穏さは、全編を覆う森や薪の匂い(不思議なことに、それは映像と音から実際に喚起される)や、風に揺れる葉音を縫って遠くに響き渡る鹿打ちの鉄砲の音と同じくらい、この映画の全体の色調を決定づけている。長回しの多いこの映画を決して飽きさせることなく観客に届けるのは、おそらくはこの基調的な懐疑の鋭さと、その背後に蠢動する白黒の付けられない曖昧な情動であり、それでもなお確信を持って届けられる、善悪を超えた存在論的な怒りの純度によるものだろう。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

コロナ禍以降の日常

新型コロナウイルスの流行によるパンデミック禍の日本列島では、人獣共通感染症によって人間とほかの動物との間にウイルスや菌といった目に見えない媒介者が存在することに対する意識が高まった。と同時に、都市圏における集密な微生物生態系を脱して、人間の少ない田舎で週末を過ごしたり、キャンプやワーケーションといった自然と触れ合いながら自らの仕事のスタイルを見直したりしようとする人びとが増加した。長期化する経済不況のなか、ビジネスマンは政府の補助金事業に活路を見出そうとする。都会では誰もが傷つき、疲れ、壊れている。彼らは自然と田舎に、癒しを求める。それはおそらく、あまりにも長い間、田舎の人間が自らを卑下し、都会に憧れ、経済的な豊かさを求めてきた反動でもあるのだろう。とにかく、人間と人間ならざるものを巻き込む、あまりにも陳腐に資本主義化され、あまりにも安易にオンライン化された社会の日常が、ここにはある。この映画の背景は2020年代の、そうしたあまりにもありふれた光景だ。

東京からさほど遠くない山岳の麓に、美しい自然と触れながら快適に休日を過ごすことのできるグランピング場の建設計画が持ち上がった。工事者となるのは、東京の芸能マネジメント会社である。グランピング場の運営計画は、コロナ禍の補助金を活用した、芸能会社のサイドビジネスとして発案されたものだという。この事業は、つまり土地の事情に明るくない「業界人」にとって新しいマーケティングの対象であり、少なくとも短期的には、都市生活者の需要が見込める有望なビジネスでもある。しかし、その建設予定地となった山村には古くから湧き出る豊かな地下水系があり、建設計画に含まれる合併浄化槽の設置は、その水環境を長期的に汚染してしまう恐れが存在している。

映画の主軸をなす物語は、最初はこのグランピング場の開発計画をめぐるわかりやすい対立軸を明らかにする。有用な樹種に恵まれ、数多くの鹿や雉たちが生活する環境にあって、その土地を開拓する人間たちは、彼ら自身の小さな生活のために樹木や動物の資源を利用しながら、それでも樹木の過剰伐採や水系の汚染が起こらないように配慮し、人間と自然のバランスを保つことによってある種のローカルな美徳を体現してきた。計画地に暮らす「便利屋」の父(巧)とその娘(花)は、彼ら自身の生活を、そうした字義通りの持続可能性のなかに位置づけ、動植物や湧水といった具体的な環境と関わる実践のなかから直接生まれてくるような、自然との対称性に根差した生活の美を体現している。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

この父子が守っているささやかな知恵は、文明を否定し自然に回帰するような抽象的な理念によるものではない。むしろそれは、世界中の先住民たちが資本主義によって撹乱された世界で生き抜くために継承してきたような、現実についての具体的な経験と感触に基づいている。ところが、補助金ビジネスの締め切りに間に合うよう、購入した土地におけるグランピング場の開発を急いで実行しようとする芸能マネジメント会社に勤める現場担当者のふたり(高橋と黛)が現れることで、物語は急展開する。

その説明会は住民との相互理解を深め計画をより良きものにするという建前でありながら、実際には土地開発事業者によって仕組まれた、一種の既成事実作りのための集会に過ぎなかった。説明する現場担当者は、実際には物事を決める権限を持っていない。彼らはただ、補助金ビジネスありきで計画を進めている東京の社長と、オンライン会議で慌ただしく実利的コメントを残していくだけのコンサル会社の社員を中心に進行している計画を担う、もっともストレスフルな現場に立たされる現場担当者にすぎないのだ。説明会で矢面に立たされる東京人ふたりの姿は、ある意味ではそうした補助金事業のシステムと資本主義的なリアリズムから導き出される典型例に過ぎないので、彼らの体現する「悪」は人格を持たず、人間的な奥行きも感じさせない。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

「結局芸能事務所の小銭稼ぎに俺たちを利用しようとしているだけじゃねえか」「もう一回やろう。問題山積みなのはあんたらもわかったろ。社長とコンサル連れてきて、もう一回やろう。まだ誰も、賛成でも反対でもない」「ここら辺は戦後の農地改革で、土地がない人に与えられた土地だ。ある意味、みんなよそものなんだ。俺たちは自然を利用し、壊してもきた。問題はバランスだ。やり過ぎたら、バランスが壊れる」。土地の人びとが持っている根深い反対感情に触れた開発業者のふたりは、この説明会で受けた地元の意見を東京に持ち帰って、社長とコンサル業者に報告する。もはやふたりは、この事業を進めることは難しいのではないか、という現地側の視点を受け止めているが、それでも社長とコンサルは聞く耳を持たず、彼らの開発計画を止めようとはしない。

現場を知らないものたちが決定権を持ち、難しい交渉の矢面に立たされる現場担当者が苦労する構図は、現代のいわゆる「ブラック企業」のビジネスや官僚主導の土地開発計画にどれだけ凡庸な悪が存在しているか、という問題をはっきりと炙り出している。この観点からすれば、「悪は存在しない」というタイトルは気の利いたブラックジョークのように見える。実際、この事業に関わって疲弊した現場担当者のふたりは、もはや会社を辞めようかと思案し始めている。彼らは、社長からの指示を受けて手土産を持って再度グランピング場計画地を訪ねる途中、車内で愚痴をこぼしあい、お互いに本音を打ち明ける。前作『ドライブ・マイ・カー』を彷彿とさせる、車内での会話シーンにおける俳優たちの演技と心理描写は、本作の白眉と言えるだろう。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

そして結局、計画地のローカルな経済の中で「便利屋」として生きる巧の元で、彼らは前よりも謙虚な姿勢で土地のことを学ぼうとするのだ。巧は彼らの手土産を突き返すが、それでも彼らに対して親身に薪の割り方を教え、地元の湧水で作ったうどんを一緒に食べることで、この土地に生きる知恵とヴァナキュラーな現実を、一緒に体験させようとする。 この辺りの心境変化を描写する濱口監督の脚本はじつに見事である。明示的な二項対立が現れたかと思うとまた崩れ、敵が敵性を失おうとするそのときに、人間の身体や個人の心情の深々とした現実と共に、行き場を失った存在論的な「悪」がスクリーンに滲み出す。それは経済と自然という別の対立を追走するこの映画全体を貫く音楽的モチーフとも言えるものであり、その意味でこの映画はタイトルとは逆に、凡庸な社会悪が、限りない明瞭さを持って実在する馬鹿馬鹿しさを嗤うものでもある。しかし、典型的な東京人である現場担当者が薪を割り、湧き水を汲み、巧と同じようにローカルな生活の現実を味わうとき、芸能マネジメント会社の社長やコンサル業者が体現している社会悪は後景に退き、善も悪もなくただその土地に生きようとする現実が、薄闇のようにそこに漂い始める。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

善悪を超えた次元へ

この映画の真骨頂は、その後に訪れる。善悪の二元論を背景とした社会的な価値基準が後景に退くとき、ある出来事によって人間もまたその一部でしかないような、深々としたもうひとつの自然が立ち現れ、登場するすべてのキャラクターと景観を不安に陥れるのだ。グランピングの建設計画から垣間見える馬鹿馬鹿しい社会悪に対して、計画地の便利屋である巧は「あそこは鹿の通り道なんだ。そのとき、鹿はどこへ行くんだ?」という、「人間の向こう側」にある生き物たちの視点を持ち出す。彼は、よそものの横暴な視点を糾弾するのではなく、嘆くのでもなく、ただ生物の世界に横たわる事象の複雑さを示すだけだ。しばしば単純化され、思考不能なまま打ち捨てられる論理に光を当て、彼はただその複雑さに潜む生々しい現実を直視させようとする。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

そして、最大の転回はその巧の数少ない欠点と言える、忘れっぽさからもたらされる。日々の作業に熱中するあまり、子供の迎えの時間を忘れがちだという、現代の子育て世代なら誰もが覚えがあるような、些細な過失。それが、物語の最後の引き金となって、日没の迫るこの自然地帯の、隠された恐ろしさを露にする。単純な結末を拒絶しながら、濱口監督はその過失を超えて、もはやそこに善や悪といった人間的な尺度を持ち込むことが難しくなるような場面へと、暴力的なまでに現実を溶解させてゆくのだ。それはかつて詩人のウイリアム・ブレイクが「恐るべき対称性」と呼んだ、自然界に内在している善悪を超えた次元に対する大胆な接近と言っても良いだろう。

この映画は最後まで、森のシーンだけに流れる美しいサウンドと、緩急のはっきりした会話シーンの映像の掛け合いによって進行する。繰り返される音楽的主題と唐突な無音の対比は、この映画に比類のない音響的美しさをもたらしている。だが、そうした「フーガの技法」による構成は、少女と鹿の眼差しが交錯し、互いを射抜く時に唐突に幕をとじる。これは、人間の内側と外側にある自然と悪の寓話である。この曖昧で緊張感に満ちた結末を、あなたはどう見るだろうか。

『悪は存在しない』 © 2023 NEOPA / Fictive

『悪は存在しない』
4月26日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国公開

プロデューサー:⾼⽥聡
監督・脚本:濱⼝⻯介
⾳楽:⽯橋英⼦
企画:濱⼝⻯介、⽯橋英⼦
出演 :⼤美賀均、⻄川玲、⼩坂⻯⼠、渋⾕采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎
106分

石倉敏明

石倉敏明

いしくら・としあき 1974年東京生まれ。芸術人類学者。秋田公立美術大学准教授。シッキム、ダージリン、ネパール、東北日本等でフィールド調査を行い、環太平洋の比較神話学やアーティストとの共同制作をおこなう。2019年、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭日本館展示「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」に参加。共著書に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』など。