公開日:2023年8月25日

ホックニーはなぜ評価と人気を60年も獲得し続けられたのか?「デイヴィッド・ホックニー展」担当学芸員が徹底解説!【前編】

東京都現代美術館で、7月15日から11月5日まで開催中の「デイヴィッド・ホックニー展」。同館学芸員の楠本愛が語るホックニー論。

〈春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年〉より 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 © David Hockney Photo: Kazuo Fukunaga

「デイヴィッド・ホックニー展」東京都現代美術館で7月15日から11月5日まで開催中だ。現在もっとも世界で愛され影響力のあるアーティストのひとりであるデイヴィッド・ホックニー(1937年イギリス生まれ)の凄さとは、いったいなんなのか。60年におよぶキャリアを概観しながら、その考えや技術の独自性について、担当した同館の楠本愛学芸員に聞く。【Tokyo Art Beat】

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「見ること」と「描くこと」の探究

──60年以上のキャリアを持ち、表現の方法も多岐にわたるホックニーは、様々な切り口のある作家だと思います。今回個展を開催するにあたり、展覧会のテーマをどのようなかたちで考えていかれたのでしょうか?

出発点はホックニーの創作を見渡したときに感じる素朴な疑問でした。おっしゃるように、その作品はひとりのアーティストによるものとは思えないほど多種多様です。どこからそのような多様さが生まれたのか? 作品に通底するものがあるとすればそれは何か? こうしたところから考え始めていきました。

そこで出てきたアイデアが「パースペクティヴス(perspectives)」で、展覧会の仮タイトルにもしていました。これはホックニーにとって「遠近法」が長年の関心事であるという意味だけではなく、根本的には、デイヴィッド・ホックニーという画家がどのように目の前にある世界を見てきたのか? そうした「ものの見方の複数性」に迫りたいという意図がありました。

ホックニーはたびたび「何を(What)」よりも「どのように(How)」が大事なのだと語っています。「何を見るのか」はもちろん考慮すべきですが、目の前にある対象を「どのように見て、どのように絵に置き換えるのか」こそがより大事というわけです。実際、「何を」という点では、ホックニーの絵の対象は身近な風景や人物が多く、いっぽうでそれを「どのように」という点では、長年様々な探究と試行錯誤を重ねてきました。それから、「見る」という経験は、たとえ見えているものは同じでも一人ひとりが見ているものは少しずつ異なるという意味で、主観的な行為ですよね。けれども、ホックニーは自分が目にしたものを絵に置き換えることで、彼自身の見るという経験を他者にも開いて、絵を観る人と分かち合おうとする。そうしたことに喜びを感じていたのではないかと思います。

楠本愛 東京都現代美術館学芸員 撮影:編集部

──「見ること」や、それをどのように絵に移し替えるかという「描くこと」に対する自覚的な取り組みが、ホックニーの一貫性なんですね。

そうですね。2019年夏にノルマンディーのスタジオでホックニーにお目にかかったとき、「描くこと」とそのための技術に対する一貫した姿勢に関してひとつ驚いたことがありました。ドローイングの話題になったとき、イーゼルに置かれたレンブラントのカタログレゾネを見ながら、小さなスケッチブックに素描の模写を始めたんです。それがただの模写ではなく、描くプロセスまで再現した模写だった。「レンブラントはここから描き始めて、次にここを描いたんだろう。なぜならこの線を見ると…」という解説まであり、筆を入れた順番を見分けられるほどレンブラントの作品を深く理解されているんだと脱帽しました。

ホックニーは1990年代後半の一時期絵画史研究に没頭していて、その成果を『秘密の知識』や『絵画の歴史』といった本にしています。自らの手で絵を描いてきた画家だからこそ、過去の画家が用いた技術に気づくことがあると彼は語っています。そして絵画史研究で得たものが絵の制作にも反映されていく。新しいテクノロジーを用いることにも意欲的で、2009年にはiPhoneでドローイングを試作して、翌年にiPadが発売されるとすぐに手に入れて絵を描き始めたそうです。iPad作品のようにこれまで日本で公開される機会がほとんどなかった2000年以降の作品を紹介することも、本展の目的のひとつでした。

そして今回個展を開催するまでの背景として、ホックニーが東京都現代美術館にとってある意味特別なアーティストのひとりだということにも触れておきたいです。

〈春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年〉より 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 © David Hockney Photo: Kazuo Fukunaga

──東京都現代美術館では版画を中心にホックニーの作品を150点ほど所蔵していて、今回も多く展示されていますね。こんなに持っていたんだと、やや驚きでした。

当館のコレクションのなかでも海外作家に限定すればホックニーの作品がもっとも点数が多く、これだけの作品をまとまって所蔵しているのは世界的に見てもまれなことです。この点数の多さにはいくつかの要因があるようですが、当館の開館準備の時期にイギリス美術の動向に詳しい学芸員が在籍していたこともそのひとつと聞いています。それから、当館のコレクションの特色として、ロイ・リキテンスタイン、トム・ウェッセルマン、アンディ・ウォーホルといったポップ・アートの代表作家による作品に加えて、ホックニー、ゲルハルト・リヒター、横尾忠則、篠原有司男といった広義にとらえるとグローバル・ポップに含まれるような1960年代の作品も所蔵していることが挙げられます。また、開館直後の1996年にはホックニーの版画の回顧展を開催していて、今回は当館での2度目の個展ということになります。

じつは私にとって、東京都現代美術館で初めて企画したのが今回の展覧会でした。開館当初から館と関係のあるアーティストの個展を立ち上げるのはプレッシャーもありましたが、やはりホックニーに向き合ってみたいと。こうした個人的な思いも本展の出発点になりました。

新旧の作品の併置から見える、画家の一貫性

──「見方」や「技術」に対するホックニーの関心が象徴的に現れているのが、展覧会の冒頭にある2点のラッパスイセンの絵です。

これらはそれぞれ1969年と2020年の作品で、前者はエッチングとアクアチント、後者はiPadで描かれています。展覧会の冒頭で年代も技法も異なる2点の絵を併置したのは、ひとつにはホックニーがラッパスイセンなど身辺にあるものを長年描いてきたこと、もうひとつにはそうした身近なものを異なる技法やスタイルで描いてきたことを示すためです。ホックニーは一般的にタッチやストロークと言われるような画家が平面上に残す「跡」を「マーク(mark)」と呼び、ひとつの技法で様々なマークを残すこともできるし、その技法でしか残せないマークがあると語っています。《花瓶と花》(1969)で花瓶と淡い影の質感を技法の違いで表現したように、エッチングやアクリル絵具、写真、iPadといった幅広い技法に関心を持ち、それぞれの技法特有のマークを探求してきたことも終始一貫しています。

左:花瓶と花 1969 東京都現代美術館蔵 右:No.118、2020年3月16日「春の到来 ノルマンディー 2020年」より 2020 作家蔵 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 ©︎ David Hockney 撮影:編集部

──展示は大きく前半と後半に分かれていて、前半のパートは基本的に同じテーマのもと新旧の作品を並べる構成になっていますね。

日本で個展を開催するにあたって、ホックニーから最初にリクエストがありました。それは、「回顧展ではなく、キュレーターが企画する展覧会にしてください」ということ。実際、ホックニーの回顧展と呼べるものはこれまでに数回しか開催されていませんし、近年では2017年から18年にかけて生誕80年を記念した回顧展が巡回していました。いっぽうで国内での大規模な個展は27年ぶりということもあり、ホックニーの作品をまとめて見るのは本展が初めてという層も一定数おられるので、初期から現在までの変遷がある程度たどれる構成がよいのではと考えました。そこで提案したのが、ホックニーを特徴づけるテーマで章を立てて、そのテーマのもとでほぼ年代順に作品を展示しつつ、いくつか近作も合わせて展示するという構成です。

たとえば「移りゆく光」の章は、プールやシャワー、スプリンクラーといった刻々と変化する水や光の動きを扱った作品で構成されています。そのなかで浮世絵の影響を感じさせる版画《太陽「ウェザー・シリーズ」より》(1973)のとなりにiPadのアニメーション作品《「窓からの眺め」より》(2010-11)を展示していますが、このふたつの作品には窓から射す光と小さな鉢植えを描いているという共通点があります。さらにいえば、ホックニーはグラマースクールの授業中に数学の先生が窓辺で育てていたサボテンの鉢植えを描くのが好きだったようです。画家を志した10代の頃からいままでホックニーの根底にあるものは変わっていないんです。

「技法特有のマーク」を求めて

──展示を見ていくなかで、特に1980年代以降に見られるホックニーのテクノロジーに対する柔軟な姿勢が印象的でした。80年代のフォト・コラージュや事務用コピー機を使った作品から、近年のiPad作品、大量の写真で3DCGをつくるフォト・ドローイングまで、「画家」という先入観で見るとその道具の現代性に驚かされます。

絵画という長い歴史と伝統がある領域で制作を行っているからこそ、新しい技術でこれまでにないイメージをつくろうとしているようにも思えます。「新しい表現手段が好きなのは、同じ題材であっても違う絵が描けるからだ」という発言からも、ホックニーのテクノロジーに対する即応性はただたんに目新しいものや流行を好んでいるからではなく、そのときの問題意識や題材に応じて技法や技術を選択しているからだということがわかります。

たとえば、本展でも展示している1984年から85年にかけてタイラー・グラフィクスで制作した多色刷りのリトグラフは、多いものだと30以上の版を重ねて色彩豊かなイメージをつくり出していますが、それだけ工程が複雑になり制作期間も長くなる。そうしたなか、1986年に事務用コピー機で版画制作を始めた理由のひとつは、その即興性にあったようです。ホックニーがコピー機での版画を「ホーム・メイド・プリント」と名付けたのは、それが版画工房ではなく彼のスタジオで、刷師の助けを借りずに自分ひとりだけですべての工程を完結させることができたからです。

また、ホックニーはiPadを入手してすぐの頃、新しいツールでの描画に慣れるという目的もあったのか、毎朝寝室の窓辺や窓の外の風景をiPadで描いて、そのままiPadから友人にメールで送るということを続けていました。これは1988年頃に始めたFAXでの作品制作にも通じるところがあります。ホックニーはFAXをモノクロームのイメージをつくるための技法としてだけでなく、そのイメージを遠方に届けるための手段としても使いました。1990年には青山のスパイラル・ガーデンと西村画廊でも公開制作が行われていて、それはロサンゼルスのスタジオからFAXで送信されたドローイングをアーティストの指示通りに展示するというもの。FAXでは小さなイメージしか送ることができないので、大作をつくるために200枚以上の断片に分けてFAXで送信し、会場で貼り合わせたそうです。こうした断片を組み合わせて大作をつくるという手法は、のちのマルチカンヴァスの風景画にもつながります。

先ほどマークの話が出ましたが、個人的にすごいと感じるのは、ホックニーがそれぞれの技法や技術の勘所をあっという間につかんで、その技法や技術でしか残せないようなマークで描画するというところ。それは長年の経験から直感的に感じ取ったり、創意工夫や研究を重ねてきたりという側面もありますが、やはり画家としての腕と目を持っていなければできないことだと思います。

──カタログの論考(*1)で、iPadだとひとつの色を自由に変更することもできるし、水彩絵具のように濁ってしまうことなく、後から選択した色の彩度を最大限保ったまま塗り重ねることもできるとあって、なるほどと思いました。そうした技術的な特徴が、iPad作品のあの瑞々しい発色につながっているんだなと。

そうですね。ホックニーはiPadで描いた絵をふたつに分けていて、ひとつはiPadドローイング、もうひとつがiPad絵画です。その違いは画面の複雑さで、わかりやすいのはアプリケーションのレイヤー機能を使っているかどうかというところ。「春の到来、イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート2011年」シリーズは目の前で移り変わっていく風景を即興的にとらえているのでiPadドローイング、《No.118、2020年3月16日「春の到来ノルマンディー2020年」より》(2020)はいくつかのレイヤーに分けて描き進めることで色合いや構図を練り上げ、最終的に重ね合わせているのでiPad絵画に分類されます。

ホックニーは2009年から現在まで「Brushes」というアプリケーションを使って制作していることを公表しています。リリースしたばかりの頃はシンプルで使いやすかったようですが、タブレットでの描画が一般化していくと、水彩画のようなブラシツールや油彩画のようなブラシツールが登場します。iPadで手軽に絵を描くには便利な機能ですが、技法特有のマークを探究するホックニーにとっては不要なアップデートでした。

──「〇〇風」は嫌なんですね。

ええ。そちらがそういうアップデートをするならこちらにも考えがあると言わんばかりに、ホックニーはアプリの開発者の協力を得て新しいブラシツールを考案し、ここ数年はそれを使って制作をしています。《ノルマンディーの12か月》(2020-21)に繰り返し登場する小さな葉や点々といった特徴的なマークが新しいブラシで描かれた部分です。スタンプのようなものを想像していただけるとわかりやすいかもしれません。しかもある部分では芝生に使われているマークが、別の場所では建物の屋根に使われてもいる。幅90メートルというとても大きな作品ですが、こうした細部をよく見ていくとホックニーのマークに対するこだわりが伝わってきます。

ホックニーの「自由さ」の背後にあるもの

──ここまでホックニーの技法に対する自由な姿勢に触れてきましたが、本展にも出品されている《一度目の結婚(様式の結婚Ⅰ)》(1962)などの初期作品にはすでにそうした様式の混在が見られます。こうした自由さは何に由来すると思われますか?

左:一度目の結婚(様式の結婚Ⅰ) 1962 テート蔵 右:三番目のラブ・ペインティング 1960 テート蔵 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 © David Hockney Photo: Kazuo Fukunaga

ホックニーの初期の作品に決定的な影響を与えたのは、1960年の夏にピカソの個展をテート・ギャラリーで見たことでした。これはホックニーが見た初めてのピカソ展で、会期中に8回も見に行ったそうです。アーティストがひとつの様式や技法にとらわれる必要はなくて、望ましい様式や技法を自由に選び取っていけばいいんだということをピカソの作品から学んだのだと思います。

ホックニーは1959年にロンドンの王立美術学校に入学するものの、周りの学生が影響を受けていた同時代のポップ・アートや抽象表現主義にはあまり関心がなかったようです。ブリティッシュ・ポップと呼ばれる動向はアメリカのポップ・アートよりも早く1950年代前半に始まったことで知られていますが、その中心人物のリチャード・ハミルトンは当時王立美術学校で非常勤講師をしていて、ホックニーも面識がありました。ハミルトンはひと回り以上年下のホックニーの作品を高く評価していましたが、それは動向や流行におもねることがない自由な姿勢を作品から感じ取っていたからかもしれません。

──ホックニーの出自やセクシュアリティについてはどうですか?

ホックニーは幼少期について「労働者階級のラディカルな家庭」で育ったと回想しています。特に父親の影響は大きく、父親のケネスは会計事務所の事務員で、第二次世界大戦後の貧しいなかでも家族で劇場や映画館に出かけたそうです。またホックニーは兵役を拒否して病院で働いていますが、この信条も両親の影響です。ケネスは平和運動や死刑廃止運動に積極的で、ホックニーも1950年代には核軍縮キャンペーンのためのポスターを制作したり、デモ行進に参加したりしています。

そして、ホックニーは同性愛者ですが、1967年までイングランドで同性愛は違法でした。特に初期の作品には同性愛の告白や抑圧への反発が表されています。実際、1964年にカリフォルニアに拠点を移すことになるのはセクシュアリティが大きく関わっている。イングランドで同性愛が合法化されたことと、ホックニーがドローイング以外の作品で裸の男性像を描かなくなったことを関連付けた先行研究もあります。

こうした身内からの影響やセクシュアリティをめぐる当時の状況もホックニーの自由な創造性の土台になりました。ましてや戦後復興が進む1950年代末から60年代前半にかけて、イギリスという階級を重んじる社会でヨークシャー出身の労働者階級の若者が何を描くかと考えたとき、「自由」という問題から目を背けることはありえなかった。そしてそれはモダニズムという制度に対する距離にもつながっていきます。

左:スプリンクラー 1967 東京都現代美術館蔵 右:ビバリーヒルズのシャワーを浴びる男 1964 テート蔵 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 © David Hockney Photo: Kazuo Fukunaga

「たくさんの人にとって意味のある絵を制作したい」

──1950年代~60年代は、様々な美術動向が次々登場し、それを進歩史観的に語るモダニズムの言説も強い力を持った時代だと思います。そうしたなかで、ホックニーは同時代の美術やその流れをどう見ていたんでしょうか?

1960年代半ばまでの初期の作品には、同時代の絵画の影響が認められます。《一度目の結婚(様式の結婚I)》の同心円のパターンはケネス・ノーランドのカラー・フィールド・ペインティングを想起させますし、《スプリンクラー》(1967)はロビン・デニーのシンメトリカルな絵画を意識したとホックニーは語っています。けれども1960年代後半から70年代にかけて、過去の動向を否定して進むモダニズムの帰結として絵画が退潮していき、代わりに脱物質化された思弁的な作品が隆盛していった。ホックニーはこうした傾向にある種の危機感を抱いていました。たとえばカタログの論考(*2)でも引用していますが、1977年に次のように語っています。

「たくさんの人にとって意味のある絵を制作したい。アート・ワールドの25人のために作品を制作するという発想はおかしいし、ばかげている。このままではいけない」

そして自身が絵画を制作する動機について、こう話しています。

「人はみな、人生に意味を求めている。それは切実な思いで、イメージはその助けとなる。(中略)街を歩いていてごく普通のささやかなこと、たとえ影であっても、美の感動を与えるものを見るのは奇跡的なことだ。人生を豊かにしてくれる。(中略)それは私にとって、絵を制作する動機として申し分ないように思われる」

──自身を「伝統的な画家」とも言っていたホックニーらしい、よい言葉ですね。

この発言には当時のロンドンのアート・ワールドをめぐる状況が関係しています。1977年にヘイワード・ギャラリーでのグループ展がテレビ番組で紹介されることになり、ある批評家が出品作の単色の絵画やコンセプチュアルな作品を批判するのですが、出品作家のひとりとして番組に出演していたホックニーが批評家の意見に同意したことがきっかけとなって、大きな論争が巻き起こった。これを受けて『アート・マンスリー』という雑誌にホックニーのインタビューが掲載されるのですが、この発言はそのときのものです。

当時40歳のホックニーは名実ともにイギリスを代表する画家になりつつありましたが、ロンドンのアート・ワールドの多数派からは批判も受けました。『アート・マンスリー』のインタビューの挿図にはカウボーイハットをかぶったホックニーが描かれ、目がドルとポンドの記号に置き換えられている。労働者階級の反抗的な若者がアメリカの西部で俗物に成り下がったというわけです。

イギリスのコンセプチュアル・アーティストのヴィクター・バーギンは1976年に「あなたにとって所有とは何を意味するのか?」と書かれたポスターを街中に貼り、ポスターという消費を喚起するイメージを利用して人々の意識を社会制度やイデオロギーに向けさせようとしました。いっぽうでホックニーはたとえ誰かにとって取るに足りないものであっても自分の心が動かされるイメージを描いて、結果的にたくさんの人々の意識に小さな変容や影響をもたらした。いま振り返ると、ある意味でバーギンとホックニーの作品はどちらも現実に立脚したアクチュアルな実践だったように思えます。

熱狂から離れ、個人的な関係性のなかで作家像を築く

──いまお話しされた点が少し不思議で、ホックニーは同時代の中心的な動向には関わっていなかったわけですよね。そうした当時のアート・ワールドとは距離があったホックニーが、現在にいたるまでこれほど根強い評価と人気を得てきたのはなぜでしょうか?

ホックニーはまだ学生だった頃から強い個性を持っていて、周囲から一目置かれる存在だったようです。王立美術学校では一般教養と美術史の単位を落としかけ、卒業制作の課題に異議を唱えた作品を卒業制作として提出したにもかかわらず、在学中に制作した作品の数々が評価されて首席で卒業。卒業した年にはロンドンで4つのグループ展に参加して、翌年の1963年に開催した初個展では作品が完売しています。1950年代半ばから60年代にかけてのロンドンでは若者を中心とした新しい文化が出現しつつあった。当時のロンドンの自由を求める空気、世界を変えていこうとする動きのなかでホックニーの作品は広く受け入れられていったようです。

──たしかにビートルズをはじめとするポップ・カルチャーが花開いていく時代ですよね。そうした流れのなかにホックニーもいた?

1960年代半ばに「スウィンギング・シックスティーズ」と呼ばれるカウンター・カルチャーがロンドンを席捲したとき、ホックニーはすでにロサンゼルスに移っていましたし、68年の夏にロンドンに戻ってからも何かを牽引するということはなかったようです。ただ学生時代からの友人がそうした流れの中心にいたようで、出品作の《クラーク夫妻とパーシー》(1970-71)に描かれているオジー・クラークはファッション・デザイナーです。

クラーク夫妻とパーシー 1970-71 テート蔵 「デイヴィッド・ホックニー展」(東京都現代美術館、2023)での展示風景 © David Hockney Photo: Kazuo Fukunaga

ホックニーのセレブリティとの距離感は、同時代のアンディ・ウォーホルと対照的です。ウォーホルはニューヨークで成功したアーティストとしてのセンセーショナルな姿でマスメディアをにぎわし、ある意味そうしたメディアがつくり出す空虚なイメージこそがアメリカ社会を体現していたわけですが、彼は多くの有名人やアートコレクターからポートレートの注文を受けて、シルクスクリーンで印刷しました。いっぽうでホックニーがコミッションでポートレートを手がけたのはたったひとり、ロイヤル・オペラ・ハウスのディレクターです。本展には映画監督のビリー・ワイルダーやマイケル・クライトン、シンガーソングライターのブルーノ・マーズといった人物の肖像画が出品されていますが、彼らはみなホックニーの友人たちです。

──幅広い文化のコミュニティとつながりはあったけど、あくまでも個人的な人間関係がベースにあるんですね。

そうですね。ホックニーが描くのは家族やパートナー、友人など親しい人物です。先ほどのホックニーの評価と人気についての質問に戻ると、一言でこたえるのはとてもむずかしい。個々の作品ではなくアーティストとしての評価と人気についての話であれば、ホックニーは1960年代から60年以上「デイヴィッド・ホックニー」という看板だけで仕事をしてきた。欧米の美術の主要な動向と距離を取ってきたからこそ、一時的な流行で終わってしまわず、ひとりのアーティストとしての評価と人気を獲得し続けることができたと考えられます。

さらにいえば、ホックニーは絵画という領域を軸にしつつも、舞台芸術、写真、美術史研究など幅広い仕事を展開したので、作品が知られるきっかけは他の画家よりも多かったのではないかと推測します。舞台芸術については1990年代初めに「ホックニーのオペラ展」が国内を巡回していますが、今回は展示に含めることができませんでした。空間や照明の使い方などが画期的でしたし、絵画など他の領域との相互作用もあるため、今後の再評価が待たれます。

*1──マーティン・ゲイフォード「デイヴィッド・ホックニーによるノルマン・コンクエスト」『デイヴィッド・ホックニー展』カタログ、読売新聞社/東京都現代美術館、2023年、p.191
*2──楠本愛「冬来りなば春遠からじ」『デイヴィッド・ホックニー展』カタログ、読売新聞社/東京都現代美術館、2023年、p.182

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杉原環樹

杉原環樹

すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、Tokyo Art Beat、アーツカウンシル東京、地域創造など。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。