平子雄一 「project N 71」

東京オペラシティ アートギャラリー

poster for 平子雄一 「project N 71」
[《Leftover 1》 アクリル絵具,キャンバス 194.0×810.0cm 2018]

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平子雄一は、空想上の植物たちが繁茂する想像力豊かな絵画シリーズを制作しています。そこでは植物に代表される自然と、人間の営みや人工物が同列に描かれ、ときに自然と人工の境目が判別しがたくなっています。頭部が植物になった人物や、特徴ある様々な象徴的モチーフが巧みに配されて、画面はときに禍々しい力を帯びて黙示録的な様相を呈し、同時に滑稽な雰囲気を醸し出します。それは物語性の強い表現といえますが、しかし平子の一貫した関心は、具体的な物語の叙述にあるのではなく、あまりに身近な存在であるためか人々の意識のなかでつねに「曖昧」なまま見過ごされている「植物」と人間との関わりについて、自然と人間との関わりについて、あらためて独自に考察することにあります。その出発点は、留学先の英国で、人工的に選別され管理された植物や緑地を人々が「自然」として愛好していることに、疑問と滑稽さを感じ、自らが自明としていた自然観との差異を自覚したことだといいます。岡山に生まれ育ち、自然豊かな環境のなか、森や田畑に触れながら成長したという平子にとって、野放図に繁茂する生命力こそが自然であり、相手を完全にコントロールしながらそれを「自然」として愛でるという発想自体が、まさに想定外のものでした。当時の平子は、英国の都市生活者たちは生の自然に触れてはおらず、そもそもどうして人々は膨大なコストをかけて人工的な「自然」をつくりだしているのか、素朴な疑問を覚えたといいます。こうした経緯からすれば、平子が描く繁茂する植物たちを、自然を対象化し支配しようとする西洋的な自然観とは異なる、たとえば日本の歴史、風土に根ざした「アニミズム的」な自然観と結びつけて捉えるのは誤りではありませんし、そのことを平子自身も意識はしているでしょう。とはいえ、平子が総体としてやろうとしていることは、単なる自然の生命力の礼賛や、一面的な自然崇拝の表現というわけではありません。ましてや植物や緑、森が好きだから、あるいは自然が好きだからそれを描く、というのとはまったく異なります。平子自身、いわゆる植物愛好家でも、自然愛好家というわけでもないといいます。平子は、あくまで自然と人工、人為と自然との関係に、その結びつきの深さに、またその結びつきの曖昧さそのものに、焦点を当てようとしているのです。

平子の作品を子細に眺めるなら、様々な位相において両義性が強調されていることに気づくでしょう。怪しく誘う「森」のようでいてじつは「庭」のなかでもあるような情景があるかと思えば、庭のようでいてじつは森のような情景もあります。ソファや食卓があるから室内かと思えば、同時に緑をたたえた戸外でもあるような情景もあります。テーブル上で、植物の成長や流木や木っ端の散乱など、むしろ庭や森の風景に相応しい出来事が進行しているような場面もあります。平子は人工と自然、そのどちらの側にも立たず、境界の曖昧さを強調し、どっちつかずのままにしています。その曖昧さを、ある種の可笑しみとして、ユーモラスな逆転をはらんだ状況として設定してみせることで、その先は自分で考えるよう、見る者一人一人に促しているかのようです。
平子の作品群には、繰り返し登場し、様々な役割を果たすいくつかの重要なモチーフが見出されますが、なかでも、もっとも頻繁に、また早くから登場しているのは、頭部が植物になった「人物」のモチーフです。この人物は、多くの場合、赤い半ズボンなど少年らしい出で立ちで、頭部だけが葉叢になっていたり、樹幹ないし樹根になっていたりします。彼は、その場面の主人公とも、平子自身の分身ともとれるでしょう。また作品によっては、物語を活性化させるトリックスター、ないし我々を案内する狂言回しともとれますし、ほかならぬ絵を見ている我々自身なのかもしれません。いずれにせよ、この「人物」は、人間とも植物ともいいきれない、まさにその両義性において、平子の想像力の展開を支える重要なモチーフとなっています。

メディア

スケジュール

2018年04月14日 ~ 2018年06月24日
金曜日・土曜日は11:00 〜 20:00、いずれも最終入場は閉館30分前まで

アーティスト

平子雄一

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