「鏡と穴 - 彫刻と写真の界面 vol.7 野村在」

Gallery αM

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[画像: 野村在「Dying (1289660s)」(2017)、ラムダプリント]

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物質が客体だ、と思えた時代はあった。人間社会的思考レベル(=ヒューマニズム)を踏み越えるには、厳然たる、客体たる物質が有効だ、と。シュルレアリスム後期以降、日本では1950年代の言説にしばしば読むことができた主張だった。それには、もとより物質との対峙たる、美術が適している。しかしながら使いこなされた物質であれば、つまり「素材」であっては、客体になりえるどころか、逆に見失われてしまう。画布でなく人物像が、乳剤膜のある紙でなく風景写真が、檜材でなく仏さまが見えるだけなら、物質が在るともいえない。そこで異素材を導入し、日用品を使うなど、かつてダダが行ったことを遠くリフレインしながら「反芸術」の実験が行われるのだが、それらが客体になれたかというと、そう簡単にはいかない。新しい「素材」、身近な材料にさえ見えがちである。物質の客体性といかにしてコンタクトできるか。その模索は野外彫刻やもの派にも引き継がれ、映像とインスタレーションの時代にはいつのまにか見えにくくなってきた。
物質自体が、変貌していく。プラス電荷を帯びた反物質がまつわるようになれば瞬時に消えるかもしれず、デジタル時代にはデータの向こうに雲隠れしてしまう。
だから野村在は、物質は消えるのだ、という。彼の制作の動機そのものが、物質が消えることへの惜別から発している。放射線物質が半減期に向かって崩壊しつづけていることを知り、震災で地面から覆され、もとより物質が強固でありえない様を見る時、私たちも彼の宣言に驚くわけにはいかない。
野村在の物資は、留まらない。液状化して形を失おうとし、気化して輪郭が揺らぎ、見えなくなりつつある。そうであれば物質は、死に向かう途上にある生命体と、区別する必要はないだろう。物質は客体ではなく主体の側にくる。実際、野村の写真のなかで、物質は生命体のように動き、生命体は物質として変化し、ともに消えようとする。すべてのものは死すべく、消滅の方向に向かっているのだから。
消えようとするのは、野村の撮影する対象だけにとどまらない。ついに像それ自体が、作り出されながら消えようとする装置が考案された。
今年のαM展「鏡と穴ー写真と彫刻の界面」の課題のひとつは、デジタル時代の現在、撮影されたデータが写真としていかに物質化されうるかを考えることにある。あえてそれを彫刻と関連づけたのは、写真を存在させる方法は、物質化、造形化になるからだ。そこに野村が寄せてくれた応えは、水に出力する、という未知の装置になる。
水という流体、身近に気体にも個体にも変貌しながら、生命体の成分でもある。これまで「消える物質」を撮影してきた野村が、「消える物質」を使って写真を存在物とする。生じたとたんに消え去る、水としての写真。それは未知の写真―物質であり生体であるかような―になるだろう。展覧会が待たれる。(光田ゆり)

[関連イベント]
アーティストトーク 野村在×光田ゆり
日時: 2月17日(土) 18:00~19:00

メディア

スケジュール

2018年02月17日 ~ 2018年03月24日

オープニングパーティー 2018年02月17日19:00 から

アーティスト

野村在

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