公開日:2008年4月11日

モスクワのアートシーンについて-「Vik Munis展」を中心に

「我々は西欧を向くべきか、ロシアの土壌に留まるべきか。」

Vik Munis, Портрет мальчики в расписной рубашке по работе Машкова, Серия Картинки из пигмента,<br /> (Portrait of a Boy in painted shirt after Mashkov, Pictures of pigment)
Vik Munis, Портрет мальчики в расписной рубашке по работе Машкова, Серия Картинки из пигмента,
(Portrait of a Boy in painted shirt after Mashkov, Pictures of pigment)
2007, chronogeric print, 241×180cm.
今年のモスクワの冬は、100年に一度の暖冬だそうである。とはいえ、12月現在で日中気温は氷点下を下回り、各建物からは湯気が立ち上り、いつもの冬と何ら変わるところはない。だが、急激な経済成長に伴い、モスクワの生活形態は変化している。特に日々の物価上昇というかたちで、我々外国人にも目に見えて認識できる。その中でモスクワのアートシーンは確実にビジネスとして成り立っており、情報媒体も増え、アートイベントが週ごとに開催されている。そのことが気温の上昇に寄与しているかどうか関連性はないだろうが、高まりが熱気に変わりつつあると言えよう。だが、十月革命のようにその熱気がいつまで続くのか、皆目見当がつかない。

モスクワのコンテンポラリーアートシーンは、おおよそ次の言葉に集約されるといってよい。

すなわち「西欧を向くべきか独自の道を模索するべきか」。

この言葉はやや古めかしく、もはやステレオタイプに響くかもしれない。だが、ことロシアに関して当てはめるのであれば、宿命としか言いようのない問いである。17世紀のピョートル大帝の西欧化政策とその反動、18世紀から19世紀にかけては哲学界における西欧派とスラヴ派の論争。20世紀のフルシチョフ政権下では「鉄のカーテン」に閉ざされた東欧での覇権を確立する一方で、「アメリカに追いつけ追い越せ」とする西欧指向の舵取り。そして今日では、西欧諸国からすると目を覆うべく、メディアを支配した政権による独自の「資本主義」。

Vik Munis, Супрематизм (с восемью прямоугольниками) по работе Малевича, Серия Картинки из пигмента,<br /> (Suprematist composition eight red rectangles after Malevitch, Pictures of pigment)
Vik Munis, Супрематизм (с восемью прямоугольниками) по работе Малевича, Серия Картинки из пигмента,
(Suprematist composition eight red rectangles after Malevitch, Pictures of pigment)
2007, chronogeric print, 213,3×180cm.
ここで重要なのは「西欧かロシア独自のものか」という問いではなく、二つの極の間で揺れ動くその時代の只中に、こう言ってよければ「時代精神」が投影されている。その「時代精神」を現状のコンテンポラリーアートにおける文脈で具体的に紐解いてみると、一方に全世界的に評価されているアーティストを扱う流れがある。そして他方では、ロシアアヴァンギャルド、その流れを引き継いだ1970年代のソッツアート、ないしはソッツアートを咀嚼し今日の文脈に当てはめようとする今日の若手のアーティストを扱う流れ。この両極のどこに着地点を定めるかというのが、モスクワにおける各ギャラリー、キュレーターの方向性となり、その集積がモスクワのアートシーンを彩っている。

10月から11月と期間を限定すると、個人コレクターやギャラリーもしくは美術館によるソッツ・アートの回顧展とロシア・アヴァンギャルドに関する企画展が同時多発的に開催されていた。一方で、日本で知ることのできるコンテンポラリーアーティストの個展もしくはグループ展は、報告者の知る限り、今回紹介する〈Vik Muniz展〉しか行われていない。今年初旬に開催されたモスクワ・ヴィエンナーレによって我々の知るコンテンポラリーアートとは異なる流れを形成しようとする勢いが未だ冷めやらない。これが報告者の第一印象である。

Vik Munis, Ленгиз ! по работе Лодченка, Серия Головоломки, (Lengiz ! after Rodchenko, Gordian puzzles)
Vik Munis, Ленгиз ! по работе Лодченка, Серия Головоломки, (Lengiz ! after Rodchenko, Gordian puzzles)
2007, digital C print, 180×258.5cm.
出だしがやや長くなってしまったが、今回はtatintsian galleryの紹介とそこで現在開催されている〈Vik Munis展10/31-12/31〉について報告させていただく。

このギャラリーはモスクワの中心部「赤の広場」のすぐ脇にあり、政権との繋がりを匂わせそうだが、ロシアのアーティストを扱うことはあまりなく、むしろ西欧でも知られたアーティストをロシアに紹介するといった趣がある。また「西欧コンテンポラリーアートシーンを反映したモスクワ唯一のギャラリー」との謳い文句通り、アートオークションでも確実に売れるであろう作品を揃えている。

Vik Munis, Апофеоз войны по работе Верешагина, Серия Картинки из пигмента,<br /> (The Apotheosis of War after Vereshagin, Pictures of pigment)
Vik Munis, Апофеоз войны по работе Верешагина, Серия Картинки из пигмента,
(The Apotheosis of War after Vereshagin, Pictures of pigment)
2007, chronogeric print, 180×282cm.
過去にはジョエル・ピーター・ヴィトキン、森村泰昌、チャップマン兄弟(ジェイク、ディノス)、トニー・マテリ、デミアン・ハースト、バーバル・クルーガー等の個展を開催している。とはいえ、「ロシア・アヴァンギャルドを土台として作品を選定している」というギャラリストの言葉を踏まえるのであれば、上記のアーティストを選定する中にもその方向性を看取できると言えよう。その象徴とも言える企画展が-に開催された〈Sozdai svoi muzeum! さぁ、自分なりの美術館を創ろう!)であり、すぐそばにあるクレムリン(ロシア語では本来「城塞」を指す)に堅く閉ざされた教会美術の「美しさ」と激しく対立するような作家を選定故にモスクワの美術愛好家を驚かせた。この流れは、現在モスクワで注目を集めるOleg Klik(オレーク・クリーク)やアーティスト集団のSinye Nosyi(シーニエ・ノーシ 青っ鼻)らに代表される過激なパフォーマンスアート、民衆や観衆を巻き込む制作形態と軌を一にしている。ここからカジミール・マレーヴィチや彼が関わっていた立体未来派の過激さ(「プーシキン、トルストイを現代の船から放り出せ!」)、否定神学的要素を土台としているのは想像に難くない。そのため、アートが従来土台とした「美」という概念に衝突する作品やアーティストの選定に特化している観が強い。今回展示されているヴィック・ミュニスの作品も、この範疇に括ることができよう。

Vik Munis, Демон (сидящий) по работе Врубеля, Серия Картинки из пигмента,(Demon after Vrubel'. Pictures of pigment)
Vik Munis, Демон (сидящий) по работе Врубеля, Серия Картинки из пигмента,(Demon after Vrubel'. Pictures of pigment)
2007, chromogeric print,169×302.25cm.
ヴィック・ミュニスはブラジル出身、ニューヨーク在住のアーティストで2001年のヴェネツィアヴィエンナーレにブラジル代表の作家として出展を果たしている。彼の作品の特徴は土、砂、埃、糸くず、砂糖、トマトジュース、チョコレートといった素材を用いてよく知られた絵画作品を模倣したものが多い。近年ではおもちゃやダイヤを素材として用いており、遠くから見ると「名画」、近くでみるとガラクタともとれるような微妙な違和感を醸し出している。今回出展されている作品も、ロシア絵画の「名作」を上記の素材で精巧に模写したものである。11月から12月にかけて国立劇場中央展示ホールでも彼の個展が開催されていることから、ロシアで彼に対する注目が高まっているといえよう。

Vik munis, Про это по работе Лодченка, Серия Головоломки,<br /> (Pro eto after Rodchenko, Gordian puzzles)
Vik munis, Про это по работе Лодченка, Серия Головоломки,
(Pro eto after Rodchenko, Gordian puzzles)
2007, digital C print, 267×180cm.
作品だが、遠くから見ると、国立トレチャコフ美術館(旧館)の作品が展示されているのかと錯覚してしまう。マレーヴィチ、ロトチェンコ、ミハイル・ヴルーベリ、ベレシャーギン、マシコフ。おそらくモスクワッ子なら誰しも一度は目にした作品が展示されている。しかし、近づいてみると表面が粗く「本物」ではないと誰もが気づくはずだ。写真とはいえ、砂や砂糖もしくは菓子くずといった粒でできており、脆く風で吹き飛ばされそうな印象を受ける。そうした状況は結局のところ、絵画作品の拠り所は眼前にあるものではなく、鑑賞者各々の思念の中にしか存在しないということを改めて気づかせてくれる。ロトチェンコの作品を模したものは、もとの作品を撮影したパズルピースから成り、元の作品とわかる状態ではあるが、微妙に崩れたかたちで撮影されている。「似ている」ということは作家のオリジナリティになるのか、作品が風化することによってどこまでが原型でそれはその作品の意図なのか。または絵画ではあたりまえとされる絵の具以外の素材で構築された作品は絵画なのかどうか。

結局のところ、作品を判定する基準は鑑賞者自らで構築しなければならないということが生じる。この点はギャラリーがかつて標榜した「自分の美術館を創ろう!」という流れを踏襲し、ロシア人にも馴染みのある「名作」を下敷きにした作品を展示することでロシア人鑑賞者が固持する美の基準を揺さぶっているかのようだ。この点を勘案すると、西欧寄りとはいえこの方向性をロシアという文脈に落とし込もうとする試みとして、<Vik Muniz展>を捉えることができよう。

その揺さぶりによって目にする状況は、「花も紅葉もなかりけり」と詠われる郷愁感であろうか。その郷愁感の裏返しとして空虚感があるわけだが、その間隙を埋めるのが今日のモスクワのアートシーンの「揺れ」ではなかろうか。この間隙が如何に埋まっていくか、他ギャラリーの動向とキュレーターの動向を今後報告することによって明らかにしていこう。

-写真はすべてGallery Tatintsianの許可を得て著者が撮影。

Yuya Suzuki

Yuya Suzuki

博士後期課程在籍 1980年生まれ。ロシア・ソ連芸術史、全体主義下(第三帝国、スターリニズム)における紙上の建築と展覧会デザイン、エル・リシツキイの研究に従事。<a>MOT</a>で企画を担当。またMOTの<a href="http://mot06.exblog.jp/3398208/">CAMP</a>というイベントの企画・運営に携わる。現在、ロシア人文大学に留学中。