東京日仏学院キャピタル(首都)の風景は、生活を彩り、快適にするための無数の意匠に満ちている。建築家やデザイナー、プランナーといった勿体ぶったプロフェッショナルたちの姿がそこに見受けられる。それらの都市のオブジェは当然のごとく美的であり、機能的である。そしてまた、都市機構の中において、各時代の様式を示す生来の構成要素として存在している。ところが、キャピタルの周辺に一歩踏み出してみると様相は一変する。秩序や美的概念、決められたスタイルなどなく、机上のものではない創作(構成)がそこにはある。郊外におけるデザインは、実用性から必要とされるものや、単なる思いつきからそこに置かれた、大した意味のないものなどを雑多に寄せ集めたものである。隣家まではみ出してペンキを塗ってしまった壁、郵便受けの取り付け位置、放ったらかしの焼け爛れたシャッター扉など、一つ一つが偶発的な行為を積み重ねてきたのである。しかし、これらのエレメントが組み合わさり、ある力強い一貫性をもった時、現在性を持った新たな美的概念が生み出される。
それが「LE DESIGN INCONSCIENT(無意識のデザイン)」である。このような、キャピタルの周縁部に見いだされる埃まみれの、そして、ブルドーザーで踏み潰されるまで誰も振り向かないような意匠。だが、この埋もれたデザインは写真に撮ることによって生まれ変わり、芸術作品へと昇華される。私は、このようなキャピタルのエッセンスを収集しながら、郊外を歩き続けている。
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