「ヒロシマ、爆風ののちに」展

アンスティチュ・フランセ東京
終了しました

アーティスト

山端庸介、土田ヒロミ
特集・特別企画 ヒロシマ、爆風ののちに のイベントです。

山端庸介 『長崎ジャーニー』
「この写真の一切、皆様方が自由にお考えになり、キャメラが冷厳に記録したデーターで批判していただくのが、私の務めと思います。(中略)人間の記憶は年々環境の変化や、生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりしてきますが、キャメラが把握した当時の冷徹なる事実は、少しも粉飾されず、八年前の出来事を冷静にそのまま皆様方の前に報告しております。(中略)この写真記録は永遠に何の歪曲もなく当時を物語っております。」
(1952年第一出版社発行の記録写真集「原爆の長崎」に記載された山端庸介の撮影メモより)

山端庸介
1917年、シンガポールで写真関連業を営む家に生まれた彼は、18歳のときにライカを譲り受け、翌年よりカメラマンとして活動を開始。戦時下にあって、昭和15年(1940)より従軍カメラマンとして中国ほか、東南アジア各地に赴いた。
昭和20年(1945)8月1日、福岡県の西部軍報道部への派遣辞令を受け、8月6日に博多に到着。同地で、広島に「新型爆弾」が投下されたことを知った。8月9日、2発目の「新型爆弾」が長崎に投下。赴任後数日にして、山端は、作家の東潤や画家の山田栄二らとともに長崎に派遣された。暗闇に炎が燻りつづける中、長崎地区憲兵隊本部(現日本銀行長崎支店、炉粕町)までの7キロの道のりを徒歩で移動した。
同日夜明けに同本部を出発。爆心地方方面より避難してくる人々を撮影しながら長崎駅前より路面電車の路線沿いに北上。三菱製鋼所を経て、焦土と化した爆心地で撮影。その後、道ノ尾駅に戻り、臨時救護所に避難してきた人々を撮影し、午後5時、博多に戻った。およそ14時間の滞在で、100枚を越えるカットを撮影したといわれる。1966年、癌のため48歳でこの世を去る。


土田ヒロミ 『ヒロシマコレクション』
「表現者としてのエゴイズムとたかかいつつ、『ヒロシマ』を見つめつづける意思を内なるものに刻みつけて 」(土田ヒロミ)

土田ヒロミ
1939年、福井県生まれ。写真家。福井大学工学部卒業。写真集に『俗神』『神・砂を数える』『ヒロシマ』『君はヒロシマを見たか』『ヒロシマ・コレクション』『ヒロシマ・モニュメントⅡ』ほか多数。作品はポンピドーセンター、ニューヨーク近代美術館、カナダ近代美術館、国立近代美術館、東京写真美術館などに収蔵。伊奈信男賞受賞。日本写真協会年度賞受賞。東京綜合写真専門学校を卒業後、サラリーマン時代を経て写真家となる。『自閉空間』で第8回太陽賞を受賞。

「第三に原爆資料館に保存された『もの』がある。かつて多くの写真家が『ヒロシマ』あるいは『ナガサキ』の悲劇をとらえようとして、こうした『もの』のなかにあの日をさがした。したがって『もの』は劇的に眺められた。『もの』を砕き、溶かし、変容させたあの熱と爆風にたちかえれるような気がしたのである。だが土田はそうはしていない。『もの』、つまり遺品や痕跡は、現在の時間のなかで見られている。いまやそれらは資料館の展示物であり、何千万の視線をあび、まるで考古学の標本のように、いまは見喪われた時間と空間を語ってきかせる沈黙である。土田はそれらの『もの』にあの日を語らせるのでなく、あの日の痕跡が現在ある状態を発見させる。それが記録であるとすれば、この状態での記録である。土田は『ヒロシマ』を考えることは現在の時間のなかでの営みであることを明らかにしているともいえるし、『私にはこういう方法でしか近づけないのだ』といっているようにも見える」。 (多木浩二)

本展の期間中、原爆に関するトークがお粉割り、映画も上映されます。詳細に関しては、会場のHPをご覧下さい。

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スケジュール

2007年7月17日(火)~2007年8月31日(金)

開館情報

時間
09:3020:00
月曜日は12:00から
土曜日は19:00まで
日曜日は18:00まで
休館日
祝日
備考
8月7日から18日まで閉館
入場料無料
展覧会URLhttp://www.institut.jp/agenda/festival.php?fest_id=29
会場アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/
住所〒162-8415 東京都新宿区市ヶ谷船河原町15
アクセスJR総武線飯田橋駅西口より徒歩7分、東京メトロ有楽町線・南北線・東西線飯田橋駅B3出口より徒歩7分、都営大江戸線牛込神楽坂駅A2出口より徒歩7分
電話番号03-5206-2500

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