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αM プロジェクト 2020‒2021「約束の凝集」第3回は黑田菜月の個展「写真が始まる」である。本展ではふたつの映像《友だちの写真》と《部屋の写真》を上映する。《部屋の写真》については入れ替え制をとるため、鑑賞者の方々は会場を待合室のように利用していただければ嬉しい。それぞれ30分弱の映像作品である。
黑田菜月は写真家であり、作品のタイトルにはいずれも「写真」という語がつけられている。会場にはいくつかの写真が額装されているはずだが、展示しているというよりは、待合室にそれとなく佇んでいる風景の一部、という性質が強い。メインとなるのは、あくまでもふたつの映像である。ここにまずツイストがかかっている。写真と名づけられた映像。
だがこのねじれは鑑賞すればすぐにほどけていくと思う。《友だちの写真》も《部屋の写真》も、写真が重要な道具立てとなっている。《友だちの写真》では動物園で子どもたちがふたつのチームに分かれて写真を撮り、手紙を書くが、それぞれのチームの子どもたちが顔を合わせることはない。《部屋の写真》も、黑田が撮影した写真をもとに介護者が言葉を重ねていくが、聞き手である私たちがその部屋の住人を眼にすることはない。写真を通り抜けることでしか、より正確に言えば、写真について語る言葉をたどり直してみることでしか凝視できない人間がいる。写真を形容する二分法として引き合いに出される「鏡と窓」の比喩で言えば、そのどちらでもない写真の現れ方がある。鏡でも窓でもなく、ざらついた壁としての写真。打ちっぱなしのコンクリートのように、それ自体は何も語らず、とても冷たい。「隣りあう独房にいるふたりの囚徒は、壁を叩いて意志を伝えあう。」「鏡と窓」にかえて、ヴェイユの言葉を口にしてみる。「壁はふたりを隔てるが、意志の疎通を可能にもする。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年、p.250)
写真をめぐる実践には絶えず「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係があり、その非対称な構造ゆえに権力と暴力の問題が必然的に発生する。この事実に向き合うことが誠実であることは論を俟たないし、具体的に傷つく人が存在していることは見過ごされてはならない。そのうえで、黑田は、写真のもつ暴力性への自覚の誇示とは異なることに自身の技術を使役させる。黑田はその暴力性の前で態度を保留しない。一緒に悩んで欲しいというようなメタメッセージも有していない。黑田の放つメッセージはどこまでもクリアだ。それは、写真はあっていい、という鮮烈な提案である。写真を観て、言葉にすることは楽しい。実在する一枚のモノクロ写真から長大で複雑な小説を書き上げたリチャード・パワーズのように、写真を起点に想像力を爆発させるのも最高ではあるのだが、本展で営まれているのは、どちらかと言えば、写真から言葉に、言葉からまた写真に戻りつつ、ミニマムな翻訳を繰り返していくような実践である。どちらの映像にも、「写真はこんなにもまだ観ることができるのか」と目が醒めるような手応えがあり、自分がおそらく出会うことのない誰かにとっても写真が始まったと信じられる経験がある。なお、黑田が《部屋の写真》にとりかかったのは2017年頃からであり、したがって制作の時系列としては《友だちの写真》よりも先となっている。
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