ギャラリー キドプレス富永はこれまで、版画制作のプロセスをイメージや言葉にも適応しながら、入れ子的実践として版画やプリント作品を制作してきた。そしてこのスタイルは、絵画が前面に押し出される本展においても、変わらずに貫かれている。ところで、ここに新たな展開として「魔女」という概念が登場するが、魔女とはまさに、印刷技術の発達によって社会に流布された「異端」のステレオタイプ・イメージから生み出された存在であり、その意味で「版画の技術史」の系譜に連なるものである。
この複雑な思考、二重三重に重なる「版画」の思索のなかで、富永が実践していることは一体何なのか。特殊な歴史と構造をもったメディアへの再帰的検討であるのかもしれない。あるいは、「魔女」という概念がフェミニズムやクィア理論の文脈において、抵抗の象徴として再解釈されてきたことに照らせば、それはすなわち、「クィアな(規範に抵抗するすべての)存在」への讃歌でもある。
さて、絵画上で行われる転写や反復、異なる文脈のイメージを無造作に並置するという技法は、「クィア」という概念を単なる主題として掲げるのではなく、その形式と構造そのものに内在させる実践であり、過去の技術史と現在の身体感覚とを架橋しようとする試みである。これらは一見すると、自らの表現形式について再帰的に探っているようにも見えるが、実のところ、それはテクノロジーや現代的な感覚とクィアネスが交差する、まったく新しい実践と言えよう。
本展の試みに(野暮なことであると自覚した上で書こう)美術史上の機能を与えるとすれば、それは美学的事実の生産ではなく、ある特殊な知識生産だ、ということになる。そしてこの点において、富永自身は、古いモノと新しいモノとをつなぐ媒介項(=mediator)として、複雑な歴史の上に立ち現れているのである。
まだコメントはありません