BAR星男今回の展示は、トランスマスキュリンの作家の性別移行前に着ていた既製服を素材に、作品が制作されている。
被服は、人の生活の一部と考えられているが、その大部分は作るとき、売るとき、見るときに、社会的な基準に沿ってジェンダー化されている。型紙、ショッピングモール内の店舗、通販サイトは「女性」「男性」と分かれて表示され、着られた服を見るときもボタンの左右や装飾の量などのデザイン面、着ている人の見た目の性別から服のジェンダーが推測される。
文化や地域、時代が変われば、ジェンダーの価値観は変わり、表層も全く別のものとなる。過去の時代の被服を見る場合、当時のジェンダー観を前提に見ていくのが、歴史を読む上で誠実な態度だろう。
しかし、それらはシスジェンダーが前提となっているのではないだろうか?あるいは、性的マイノリティを考慮に入れていたとしても、「シスジェンダーから見た」マイノリティ観となってはいないだろうか?
まず、性的マイノリティで可視化されているのは、それをオープンにしている人という点に注目したい。ほんの一部の人にだけオープンにしていたり、誰にも開示していなかったり(クローゼット)、独り身であったり、違和感はあれどその概念・用語を知らずに生きている人もいる。この人たちは、可視化されづらく、人数としてカウントされにくい。
何も言わなければシスジェンダーかつヘテロセクシャルであることが前提で話が進む。性別の役割に「普通」を求めるにしろ、そこからの「逸脱」を実践するにしろ、それの拠る規範それ自体がシスヘテロしか想定されておらず、何らかの表明があって、初めて、(例外として)、そうではない可能性が考慮され始める。
次に、周縁とされる者には、「誤読」がつきまとうという点。
例えば、女性や異人種に対する無理解さは、その記録のなさや、あっても他者からの眼差しによって歪められる。「女性/黒人は痛みに強い」という「誤読」が、医療において訴えを軽視され、治療が遅れる原因となっているのは現在でも問題となったままだ。
それと同じことが、トランスジェンダーにも起こっている。トランスジェンダーに関する医療では、性別違和を(主にシスジェンダーの医師に)証明するため、「シスヘテロの規範に沿った逸脱」としての存在であらねばならない、生存のために誤読を受け入れざるを得ない問題がある。それによって、性別違和の語りが刈り取られ、1本に固着化されている状態となる。縫い、装飾する手芸は、主に女性の仕事と位置付けられてきた。
この歴史から手芸は、美術においてもフェミニズムの文脈で有効な手つきである。あるいは既製品の多くが、社会的な基準に沿ったジェンダー観を反映していることから、その対抗手段として、クィアの文脈でも扱われる。
今回の展示では、性別移行前のフェミニンな服や、手芸の技術が使われている。トランス男性がこのような表象を提示すると、シス規範により「やはり女性だから」とミスジェンダリングされ、旧態のジェンダー観の押し付けとともに、細やかなトランスマスキュリンの生を切り捨てられる危険性がある。死後、クローゼットからこれらが出てきたとき、自身のアイデンティティは尊厳を持って存在し続けられるのだろうか。
様々なアイデンティティが存在できるART Bar星男にクローゼットを持ち出し、自ら語り得ない人の尊厳について考えていきたい。
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