軽井沢安東美術館第二次世界大戦中、戦争画を描いたことで日本の画壇から非難され、しばらく筆を置くことを求められた藤田は、1949年、日本を離れ、ニューヨーク経由で再びパリへと戻っていきました。しかし、1920年代に享受した栄光と活気はもはやそこにはありませんでした。帰仏から2年後の1952年に制作された《除悪魔 精進行》(油彩・ガラス 軽井沢安東美術館蔵)には、藤田の内なる苦悩や葛藤がフランス語で記されており、「私に力を与えよ」という叫びとともに跪き、天を仰ぐ藤田自身の姿が描かれています。
そうしたなか、藤田は1910年代に取り組んだ宗教画へと再び関心を寄せていきます。パリに戻って以降、藤田が繰り返し描いた少女像には宗教的なシンボルが描き込まれ、母と子を題材とした作品が数多く制作されました。そしてこれらのモチーフはやがて聖母子像へと昇華します。
1959年には、藤田は君代とともにランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、新たな信仰の道を歩み始めます。洗礼名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんで「レオナール・フジタ」。藤田は洗礼の日付とともにその名を記した《聖母子》をランス大聖堂へ献納しています。
ところで、洗礼の際、彼の代父・代母となったのは、藤田と深い親交があったランスの老舗シャンパンメーカー、マム社の社長ルネ・ラルーとテタンジェ社の創業者一族であるテタンジェ家のベアトリスでした。またルネ・ラルーは礼拝堂を建てたいという藤田の願いに応え、マム社に隣接する土地を提供し、建設費用を準備するなど、その実現に向けて力を尽くしました。そして礼拝堂の建設が正式に決定すると、藤田は建物の装飾やフレスコ画のための大量のデッサンを仕上げ、堂内四面の壁画をわずか3か月で完成させたのでした。
展示室2では、ランス大聖堂へ献納された《聖母子》とともに、藤田とランスの関係を紐解きます。展示室3では、宗教的なシンボルが描き込まれた少女像や母子像をご覧いただきます。そして展示室4では、キリスト教徒となった藤田の大傑作といえるシャペル・フジタをご紹介します。藤田が辿り着いた芸術と信仰の境地—その二つの深淵に迫るかつてない特別な企画展を、どうぞお楽しみください
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