岡本太郎記念館この人の写真はどこか太郎とおなじ匂いがする。はじめて佐内正史の作品を見たとき、そう直感しました。むろん“作風”が似ているからではありません。中身になんら共通点はないけれど、画面の“向こう側”に同質のネイチャーが透けて見えるような気がしたからです。一言でいえば、写真が「文脈」や「物語」から自由であり、それゆえに“お仕事”の匂いがしない。
一般に、写真家の撮る写真にはミッションがあり、テーマがあり、メッセージがあります。撮影対象が人でも風景でもブツ撮りでも、あるいは受注仕事だろうが自主的な“作品づくり”だろうが、この点においては変わりがありません。商業写真にしろ芸術写真にせよ、主眼はメッセージのデリバリーにあり、作品はいわばヴィークルのようなもの。ゆえに力のある写真ほど暑苦しい。ところが太郎と佐内さんの写真には、見る者を説き伏せようとの意思がみじんも感じられないし、マーケティングの気配もありません。端的にいえば、「撮った」のではなく「撮れちゃった」ように見える。おそらく彼らは、「撮ろう」と考えるより先に、五感が「お、いいぞ!」と囁いた瞬間にシャッターを切っている。なにを撮ろうか、どう撮ろうか、なんてことは考えず、対象から放射される“波”を傍受し、直観するだけ。だから文脈や物語とは無縁なのでしょう。太郎は「芸術なんてなんでもない。道端の石ころとおなじだ」と言いました。たぶん佐内さんも「写真なんてなんでもない。拝まないでくれ」と考えている。
そんな佐内さんにTAROと向き合ってもらいました。太郎の絶筆『雷人』に眼が釘付けになった彼は、自らの撮影原理を「雷写」と銘打ち、TAROとの対話にのめり込んでいきます。展示作品の過半を撮り下ろしただけでなく、350頁におよぶ同名の写真集を刊行するなど、その熱量は尋常ではありません。時代を超えて対峙するふたりのアーティストの相貌をどうぞご覧ください。
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