

例えば《青柿》(1947年)のまだ熟していない実のつやつやとした緑、雨に濡れてその色を深く鮮やかにした大振りの葉の間から顔を出している様子は、遠くない未来の自分が色づくことを知ってか知らずでか、今はまだ雨に打たれていることそれだけで楽しいと小さな心を弾ませているかのようである。それは今という時だけに輝く若さへの静かな賛歌である。
そして松篁の絵に鳥や動物などが登場する時―いわゆる「花鳥画」と分類される表現―その絵はさらに見る者を惹きつけるようになるのである。松篁の絵に登場する動物たちは、小さい。しんと深い緑の中、春を待つ雪の下、そういった自分より大きな自然の懐に包まれた動物たちは小さく、弱く、それゆえに見る者の心に愛おしさを想起させるのである。私達は絵の中の小さな鳥を見て、日々の生活の中で触れ合う年端もいかぬ子供らを思う。そして、そのような小さき者たちだけではなく、もう十分に大人といえるほどの年齢だけは重ねた自分も同じく、自分より大きな存在に抱かれ、うつろい変わり続ける季節の風の中で、弱くとも懸命に生きている小さき者なのではないかと感じるのである。

《春雪》(1982年)では、去りゆく冬の置き土産であろうか、雪が積もり残っている笹の葉の下、おしどりのつがいが春を待っている。寒そうに首をすくめる雌を心配そうに見やる雄という解釈は擬人化が過ぎるとの謗りを受けるかもしれないが、しかし、おしどりという画題をもって夫婦の情愛というものを描きたかったであろう画家の思いは十二分に感じ取れるところである。
動物が描かれている絵の中で特に印象的であったのが《月夜》(1939年)である。それは、青いトーンで統一された幻想的な色調という特徴と共に、そこに描かれている兎の親子の描写に惹かれるからである。子兎の無垢な愛らしさはもちろんのこと、何かの物音を聞きつけたのか、立ち上がって様子を伺う弱き親兎の強さに心打たれる。それは4人の子供をもった松篁であり、守るべき愛する何かを抱えている鑑賞者自身である。
《水温む》(1988年)には、落ちた椿に1つの季節が過ぎ去ることの哀愁を、可憐な小鳥に新しい季節が来る喜びを見ることができる。まだ寒い風の中にも春の日差しを感じるこの3月、生への静謐な慈愛に満ちた作品に会いに横浜を訪れてみてはいかがだろうか。
Hana Ikehata
Hana Ikehata