
上演風景
6stepsは、「6段の階段」を媒介にダンスの可能性を探るプロジェクト。振付家・ダンサーの木村玲奈を中心に、多様な領域のメンバーとともに、舞台芸術と社会をつなぐ場づくりに取り組んできた。今年1月、横浜市民ギャラリーあざみ野で行われた『リフト』では、振付と演出の分業による新たな創作を探求する試みとして、アーティスト・山川陸を演出に迎え、劇場の外で上演されるダンス作品に挑んだ。本公演を、ダンス研究・編集者の白尾芽がレビュー。【Tokyo Art Beat】
今年1月下旬に『リフト』の上演があってから、この原稿を提出するまでにかなりの時間が経ってしまった。にもかかわらず、違う作品の話から始めることを許してほしい。6stepsの発起人・代表である木村玲奈のソロ作品『糸口』である。公演は3月、FSXホール(くにたち市民芸術小ホール)スタジオ、入間市 文化創造アトリエ・アミーゴ スタジオの2会場で行われた。いずれの会場もユニークな特徴を持ち、筆者が鑑賞した前者は、客席が舞台の三方を囲む構造で、緊張感がありながら親密な距離感を持った空間だった(*1)。上演前の舞台には、抜け殻のようなピンク色のウインドブレーカーを含む衣装、フォームローラー、本、読書ノートやコンセプトに関する資料などが置かれていて、観客は自由にそれらを見ることができる。そこで見つけたのが、『芝居はどうしてつくられるか』(*2)という本だった。稽古や演出から劇場空間にいたるまで、芝居(演劇)の成り立ちを説く本であるらしい。帰って詳しく見てみると、第4章「劇場」の冒頭にこのような記述があった。
そして、貧乏人やみかけの良くない観衆が客席の呈する美観を殺ぐことはなくなった反面、それ以来、値段の高いオーケストラの椅子席が地味な階級の人々が立っていた平土間にとってかわった(十八世紀末)。そしてこれら貧しい観衆はいちばん高い場所に追放されてしまったのだ。その場所は観ることも聴くことも、ことに観ることには不便な場所で、優美に着飾った観客をみるにもやっとという場所である。同じ考えのもとに、特別な階段が、往々にして彼らのために用意された。それは階級間の接触を避けるためで、街路にまでその差別が及んだこともある。(52頁)
この後には、つまり「見やすさ」だけが劇場建築の問題となったのは比較的最近のことなのだ、という内容が続く。たしかに現代のわれわれは、舞台芸術の観客として、ほどよい位置から舞台を見下ろすことに慣れきっている。しかしよく考えてみれば、その視線は見る/見られるという関係の非対称性を生む当のものであるし、そもそも劇場でその視点を獲得できること自体にある種の特権がある。そして特権的な劇場空間のなかにもまた、いまだ避けがたく高低差による経験の格差が存在し、18世紀以前との違いは、それを自分で選べるようになったということだけである(先日も筆者はある劇場で安価のバルコニー席を求め、お値段なりに制限された視界でダンスを鑑賞した)(*3)。
前置きをもう少しだけ。6stepsは、6段の階段というオブジェクトであると同時に、それ自体が振付書を伴うダンスプロジェクトである(*4)。6stepsはこれまで様々な空間に置かれてきたが、すごいのは、階段があればとりあえず誰しも上ってみるということだ。それは、ふだんは座ってばかりの観客が体を動かし、ふだんは見下ろしてばかりの観客が、階段に立つ人間を見上げるということを意味する。だから6stepsは劇場のヒエラルキーを解体する試みなのだ、と言いきるつもりはないのだが、ある空間にダンスを置くのではなく、ある空間に階段を置くことによって生まれる空間をダンスと呼ぶことは、ひとつの発明ではないだろうか。6stepsは機能を持った階段でも舞台でもなく、中途半端な中空に人を置き、その振る舞いを変える。かつ、そうした人の動きだけではなく、人の動きが生まれる空間自体が、ダンスとしてとらえられる。6stepsから生まれたダンス作品『リフト』も、やはりこのことを扱っていたように思えるのだ(やっと本題に入る)。

本作『リフト』の正式名称は「6steps|6段の階段+振付書+演出から生まれるダンス『リフト』」である。木村の名前はコンセプト・振付としてクレジットされていて、演出として山川陸、出演として山口静の名前が並ぶ。作中で実際にどのように動くかというスコアは山川と山口によるものだが、6steps自体がすでに「振付(書)」を含んでいるので、そこで行われる動きの設計は、振付ではなく「演出」として位置づけられている。
会場である横浜市民ギャラリーあざみ野に到着すると、観客はまず、6段の階段に出迎えられる。外の光がいっぱいに入り込み、3階まで吹き抜けのロビーの真ん中に、階段はある。建物には展示室のほかにも交流ラウンジやアトリエがあり、作業する音や子供の声が吹き抜けに響いている。階段は上演日の数日前からここに置かれ、かなり場に馴染んでいるように見える。そこから3階に上がって受付を済ませると、ガラス窓で区切られた中庭のような空間に、同じ階段があるのが見える。観客はその中庭を囲む廊下に案内される。中庭は窓を隔ててアトリエにつながっていて、その室内に、もうひとつ同じ階段が見える。中庭の階段とぴったり重なって見えたので、最初はガラスの反射かと思ったが、どうも別の階段のようだ。こうして上演前に、観客は3つの階段に出会うことになる。

廊下の壁沿いに立って開演を待っていると、中庭の階段の前にスキーの柄の服を着た山川が登場し、作品に関する短い発話をする。「前、前。空間で言うと、前は、前。この口が、息を吐き出すほう。時間で言うと、前は、前。私が通り過ぎたほう」。「今日は、〈前〉へ向かっていく、そんな1日です」。ここでの〈前〉は、方向としての前だけではなく、時間としての前、つまり未来と過去の両方を含み込んでいる。山川がステイトメントに「駅の階段を駆け下りながら乗りたかった電車が去っていくのを見送るとき、私の目にはいつも数段先を走り電車に乗り込み窓からこちらを眺める私が見えている気がします」と書くように、生活のなかに、たとえば毎日同じ道を行き来するこの体と昨日の自分、去年の冬の自分、あるいは数年前の自分との重なりに見出せるような感覚が、ここで〈前〉と言われているものの正体のようだ。時間はつねに前に進んでいて、自分の体も多くの場合、前に進んでいる。しかしその運動が繰り返されるとき、〈前〉は複数の意味、つまり自分が知っている過去と、自分が知らないけれど予期できる未来を同時に含むことになる。そして、この6段の階段には〈踊り場〉がない。つまり進路を折り曲げて方向としての前(あるいは上?)を目指すことはできず、上りきったら降りなければいけないのだ。そのとき階段の上の体は、少し〈前〉までそこにいた自分の影を踏む。

〈踊り場〉がないこの階段は実際、ダンサーにとって踊りにくい舞台だったようだ。段を踏み外さないように足を置くことで下半身の動きは制限され、自由に大きく動かせるのはほぼ上半身だけである。山川の言葉を聞いた後、観客は階段を一列になって降り、ロビーの階段に再会する。「ずっとここにいました」というような雰囲気で、山口がすでに階段を上り下りしている。動きはゆっくりと、厚いスニーカーのソール越しに木の質感を確かめるような上り下りに始まる。そのうち、骨盤を傾け、膝から脚全体をくるっと回して方向転換する、アキレス腱がよく伸びそうな動き。手を上にあげて、空間全体に広がっていく深呼吸のような動き。そこから空気を腕で抱え込んで、ジャケットの袖がふうっと膨らむ。それぞれの動きは何回ずつか繰り返されているようだが、確かめようとするうちに、視界の上下左右によってよくわからなくなってしまう。後半、片足だけ1段、2段と下ろす動きや、激しく腕を振る動きにヒヤッとする。踏み外したらどうしよう。笑うような口元にはっとさせられたりもする(*5)。
たびたび腕を上に向けて広げ、指の先を見上げる山口を見上げる観客の目には、いろいろな情報が飛び込んでくる。窓から差し込む光。スケルトンのエレベーターの動き。人々の影。声の反響。だが、それによってダンサーの動きが後景に退き、空間が前景化してくるようには感じられない。山口の動きは、たんに観客の視線を誘導するのではなく、ここに広々とした空間があり、階段が置かれ、階段を上り下りする人と、それを見る人がいる、という事実を指し示す。向かい側に座る人のことが意識にのぼる。あくびをしている。山口は中盤、イヤホンから大音量で音楽を聴く。観客に聞こえるのはかすかな音漏れだけだ。山口の体と、観客を含む周囲の環境のあいだに、透明の薄い膜ができる。ダンサーと環境は互いに影響を与えあっているようでもあり、まったく関係ないようでもある。ただそのようにして、階段の置かれた空間というものができている。ふともう一度前を見ると、さっきあくびをしていた人が、妙に真剣な面持ちで頬杖をついている。

動きをやめ、階段に座り込んだ山口は、すっくと立ち上がり、エレベーターに乗って3階にあがってしまう。観客はもう一度階段を上ってそれを追いかける。次にたどり着いたのは、さっき中庭越しに見ていたアトリエである。室内から見ると、やはり中庭のものとぴったり横のラインを揃えて階段が配置されていたことがわかる。3つ目の階段を前に、観客はしばらくのあいだ、さっき一番はじめに見たような、しっかりと一段ずつ踏みしめる動きのシークエンスを見ることになる。アトリエの空間はこぢんまりとしていて、階段の一番上に立つと、ほとんど天井に手が届きそうなくらいである。さっき見た動き、さっきは見えていなかった動きが、さっきとは違う空間に置きなおされていく。「さっき見たもの」のなかに「さっきは見えていなかったもの」が紛れ込むのは、それが毎回異なる環境で繰り返されるからだ。

観客は最後にこのアトリエで、これまでの自分の視線を追いかけることになる。人だけが踊るのでも、環境がすでに踊っているものとして見立てられるのでもない。動きは淡々と前に進み、それを追いかけるようにして見る観客のなかに、そして動きが置きなおされていく空間のなかに、ダンスというものが生まれる気配がある。私がよく知っている道にたくさんの私の断片があるように、6stepsのある空間には、様々な動きの断片が散らばっている。忘れたということにして意図的に置いていかれたもののように、それは観客の体にもつかの間とどまり、そして〈前〉へと進んでいく。
*1── 『糸口』については、以下のレビューに詳しい。「山川陸|木村玲奈 ソロダンス作品『糸口』」、artscape、2026年4月15日、https://artscape.jp/article/65292/
*2 ──フィリップ・ヴァン・ティーゲム『芝居はどうしてつくられるか』石沢秀二訳、白水社、1961年。
*3──山川陸と武田侑子によるユニットTransfield Studioは、国内外でフィールドワークをおこないツアー型作品を制作するなかで、都市における高低差というテーマも扱ってきた。治水や、地形と植民地支配に関する作品については、以下のインタビューに詳しい。「都市の実感、土地への想像力、集い歩くこと:Transfield Studioとの会話」(聞き手=飯岡陸)、建築討論、2025年9月19日、https://medium.com/kenchikutouron/都市の実感-土地への想像力-集い歩くこと-transfield-studioとの会話-3a431818d4ac
*4──6stepsというプロジェクトの全貌については、以下に詳しい。宮下寛司「リズムとしての環境について──パフォーマンス『6steps|6段の階段+振付書+森の営みから生まれるダンス』」、シアターアーツ、2025年5月25日、http://theatrearts.aict-iatc.jp/202505/8643/
*5──階段上での動きについては、Aokidの記述に示唆を受けた。Aokid「『リフト』の感想」、note、2026年1月26日、https://note.com/aokid/n/n95b13b432a68

白尾芽
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