展覧会風景
アムステルダム在住のアーティストでピアニストの向井山朋子による個展「向井山朋子 Act of Fire」が、群馬・アーツ前橋で開催されている。向井山にとって日本の美術館では初の大規模個展となる本展は、地下に連なる6つのギャラリーを劇場のように見立てた回廊型インスタレーションとして構成され、音、映像、オブジェ、そして地、月、血、火の4つのエレメントを通して、個人の記憶と世界の痛みが重ね合わされる。
本展会期中の3月11日、東日本大震災の発生から15年を迎える。その節目は本展を形づくる重要な要素のひとつであるが、「Act of Fire」が向き合うのは3.11という出来事の記憶だけではない。ジェンダー不平等、社会構造に内在する暴力、抑圧のなかで蓄積されてきた怒り、そしてピアニストとして生きるいっぽうで、演奏とは別の場所で重ねてきた人生の経験。そうした要素が時間をかけて積み重なり、この展覧会へとつながった。
会場に足を踏み入れると、まず感じられるのは、明示的な主張や説明よりも、どこか抑制された空気だった。震災、災害、戦争、ジェンダー不平等といった主題は、展示全体に溶け込むように配置されている。光の落ち方や音の広がり、空間のリズムが重なり合うなか、鑑賞者は回廊を進む。本企画を担当した宮本武典は「剥き出しの感情を前面に出すのではなく、少しベールに包んだ形にしたかった。そうすることで、見る人それぞれが、自分のなかにあるものを投影できる空間にしたいと思った」と話す。
「被災した人たちは、痛みを包むようにして生きてきた。表に出さずに、でも確かに抱え続けてきたものがある」(向井山)
向井山は、「見えない痛み」をベール越しの気配として空間に響かせる。そうした感覚が、回廊を進む鑑賞者の経験や記憶と響きあう。その象徴として、展示の冒頭に現れるのが、津波によって破壊された2台のグランドピアノによるインスタレーションだ。


震災当時、向井山は作品《wasted》の東北巡回を準備していた。しかし、東日本大震災の発生によって、その計画は実現することなく中断される。アムステルダムから帰国し被災地に入った彼女は、宮城県石巻市湊地区で、津波による甚大な被害を受けた2台のグランドピアノと出会った。かつて多くの子供たちが学んだ学校で校歌を奏でていたピアノには、津波が運んだ泥や砂、瓦礫がそのまま残されていた。
本展で展示されている《夜想曲/Nocturne》は、地上階のギャラリー1から、地下階のギャラリー2を見下ろすかたちで配置されている。両者をつなぐ吹き抜けには黒幕がかけられ、向こう側の空間は見通せない。奈落の底を覗き込むように暗がりに目をこらすと、ピアノの輪郭がかすかに浮かび上がり、かつてそのピアノが置かれていた学校の校歌が流れている。2台のピアノは、癒しや再生を語るための象徴としてではなく、語りきれない傷を抱えた存在として、空間のなかに佇んでいる。
暗闇のなかを進むうちに目が慣れ、視界に大きな赤い月が浮かび上がる。巨大なLEDパネルに映し出されたその満月は、刻々と姿を変えながら、地下へと向かう動線を照らす。

