公開日:2023年7月20日

アーツ前橋の問題が東京藝大に波及。アーティスツ・ユニオンが意見書提出、学生が説明を求める動きも

借用作品の紛失と作家に対する契約不履行が起きた群馬県前橋市の市立美術館「アーツ前橋」。当時の館長が教授を務める東京藝術大学に、再発防止や学芸員倫理の再確認などを求める動きが出ている。

東京・上野の東京藝術大学

「深刻な出来事」と再発防止を要望

国内や世界を拠点に活動する現代美術家の労働組合「アーティスツ・ユニオン」(村上華子支部長)は、東京藝術大学の日比野克彦学長に「アーツ前橋の契約不履行事案にかかる再発防止を求める意見書」を6月20日に送付したと発表した。意見書は、アーツ前橋が2019年に開催した企画展の記録集の発行を中止し作家に業務委託料を一部支払わなかった問題を、「美術業界に関わる誰しもが尊重される平等で公平な労働環境の実現をはばむものとして、非常に深刻な出来事」と指摘。同大教員のアーツ前橋前館長(編集部注:住友文彦=当時東京藝大大学院准教授、2021年4月より教授)が、問題に関わっていたとして再発防止を求めた。被害を受けたアーティストの名誉回復に努めることも要望した。

また、前館長が教授を務める東京藝大大学院の学生からも大学側に説明を求める声が上がっている。

アーティスツ・ユニオンが東京藝術大学に出した意見書

2013年の開館以来、気鋭の作家の個展などでアートファンに親しまれてきたアーツ前橋では近年、ふたつの問題が起きた。

ひとつは、故人作家2人の遺族から預かった木版画4点と書2点を紛失した件。同館が2018年12月に調査目的で預かり、廃校舎のパソコン室で一時的に保管していた52点のうち、計6点が見当たらないことが2020年1、2月に発覚した。遺族への紛失連絡は同年7月、前橋市の発表は同年11月に行われ、対応の遅さや作品保管のずさんさが批判された。その後、市が設置した有識者による調査委員会が2021年3月に公表した報告書は、前館長と担当学芸員が借用作品リストの改ざんによる紛失の隠蔽や虚偽の説明を図っていたという内容を記載。前館長は会見を開き、「隠蔽や嘘はない」と反論したが、市は前館長ら5人を訓告処分とした。前館長は、紛失発覚前からの予定通りに同年3月末に退任した。いっぽう、市は紛失作品について盗難の疑いがあるとして前橋署に被害届を提出。捜査が続くなか、今年3月に市は2作家の遺族に計400万円の賠償金を支払い和解した。

もうひとつが、ユニオンが意見書で取り上げた企画展「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX 未来を考えるための教室」を巡る契約不履行だ。市は昨年、アーツ前橋がアーティストの山本高之と結んだ契約を守らず記録集の作成を中断し業務委託料の一部が未払いだったとして山本に謝罪し、賠償金として80万円を支払った。今年3月末、同館ホームページに山本龍市長の名前で報告文が公開され、同時期に記録集が約3年半遅れて発行された。報告では、前館長が市に対し事実と異なる経過説明を行ったことにより「行政として正しい判断ができない状態が長く続き」発行遅滞に至ったと説明している。

「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX 未来を考えるための教室」記録集(デジタル版)はこちら

2019年に開催された「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX 未来を考えるための教室」記録集。アーツ前橋の契約不履行により予定より約3年半遅れて今年3月に刊行された

アーツ前橋は館長不在が続いたが、今年5月に特別館長に森美術館特別顧問の南條史生が就任。運営責任者の館長は、元兵庫県立美術館学芸課長の出原均が就いた。就任会見で南條は「管理体制を精査し、改善できるところはして、(館の)再生プロジェクトを進めたい」と延べ、10月から開催する館の10周年記念展に意欲を見せた。

信頼回復を目指しアーツ前橋が再出発するなか、東京藝大に対しアクションを起こしたアーティスツ・ユニオンメンバーの美術家・映像作家の田中功起、同ユニオンオブザーバーの彫刻家・評論家の小田原のどか(プレカリアートユニオン多摩美術大学支部長)、説明を求めた学生に話を聞いた。

虚偽の報告「行政判断を遅らせた」

個人加盟できる労働組合「プレカリアートユニオン」の支部として今年1月に結成されたアーティスツ・ユニオンは2023年7月現在、山本を含め17人の作家が加入。適正な報酬を受け取る仕組み作りやハラスメントの防止を目指し、各種ガイドラインの策定を進めている。アーティストの労働環境や権利を守るため個別事案に対応したキャンペーンにも取り組み、東京藝大に意見書を出したのは初のアクションになる。

アーツ前橋の契約不履行を取り上げた理由について、田中は次のように説明する。

「本件の核心は、記録集制作が遅れた原因を作家の責任にするため、市に対し前館長や担当学芸員が虚偽の報告を行い、それによって正常な行政判断を遅らせたことにある。表面的には記録集作成を巡るトラブルに見えるかもしれないが、本質は違う。これは、美術館などとの仕事の中でアーティストの誰にでも起こり得る不当な扱いをめぐる普遍的な問題だとユニオンメンバーの認識が一致し、意見書を出すことにした」

小田原はこう述べた。

「意見書は、前橋市の開示資料で明らかになっている、虚偽報告や事実と異なる説明が行われたという問題の核心を東京藝大に伝えるとともに広く共有する目的がある。ユニオンの結成会見で山本は『こうした運営がまかり通るようでは、我々美術家は展覧会など恐ろしくて参加できない』と語ったが、美術界の中では問題意識があまり広がっておらず、問題の核心がうやむやになる恐れがあった。個人の糾弾が目的ではなく、大学になぜ問題が起きたかを踏まえ、私たちと一緒に再発防止に取り組んでほしいというのが意見書の趣旨だ」

Tokyo Art Beatは今年3月、「出展作家との契約違反で市が損害賠償。アーツ前橋でなにが起きたのか」と題した記事を掲載した。美術館による「契約不履行状態」が作り出された経緯はこちらを読んでほしいが、意見書作成に際しユニオンがおもに注目した点は以下の通り。なお、ユニオンと上記の記事はいずれも情報公開請求による市の開示資料に依拠している。

①虚偽報告/日付の改ざんにより、記録集の未実施を作家(山本)の責任にしたこと

・担当学芸員は、記録集のアイデア提出の締め切りを作家が守らず、打ち合わせの打診にも応じなかったと市に説明。しかし、提出を依頼したとは確認できず、作家は打ち合わせにも応じていた。
・前館長や担当学芸員が「依頼した内容と違う」「一方的に送られてきた」と主張した作家による記録集の内容案は、館との契約に沿ったものだった。
・別の学芸員が作成した市に対する経緯説明資料に、実際と異なる日付が複数あった。その結果、時系列に誤りが生じ、記録集の進行が遅れた原因を作家側に転嫁した。

②市の調査に対し、当初は自分たちに不利な記録を提出していなかったこと

・作家の要請による市の再調査で、担当学芸員が自分や前館長が作家とやり取りしたメールの多くを未提出だったことが判明。メールには、前館長が記録集の内容を作家に一任したと取れる内容が含まれていた。

③記録集について、①②により行政判断を遅らせたこと

・前館長は市の担当部課長らに「作家が本来の発行物を作成しようとしていない」などと②のメール内容と矛盾する説明を行ったため市は発行中止へ向けて手続きを行った。その後も市に対し、事実と異なる経過説明や記録の未提出が行われた。

アーツ前橋で2019年に開催された「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX 未来を考えるための教室」展の会場風景

前館長の教壇復帰「説明する社会的責任ある」

「開示資料には、記録集の内容を検討している段階から発行中止を館内で話し合い、前館長が市に相談したことも記されている。そこでは、中止の場合、契約不履行になることが示唆された。しかし、作家と締結した契約書をあくまでも形式的なものととらえ、自分たちの都合のいいように変更できるととらえていたように見え、コンプライアンス意識の低さがうかがえる」(田中)

意見書は、「芸術に携わる専門家の育成に関わる唯一の国立総合芸術大学」の東京藝大に、本件の深刻さを認識するように要望。一時休職していた前館長の教壇復帰に関しても「大学として公に説明する社会的責任がある」と指摘した。また、美術に関わるすべての人に「美術館館長および学芸員の倫理をともに再確認」するように呼びかけている。

「本件の根底には、アーティストと学芸員が『対等な立場』だという意識が根付いていない業界特有の気風があるのではないか。意見書の指摘を受け止めて改善へ動いてもらいたい」と小田原。ユニオンでは本件を踏まえて、これまで労働者としてのアーティストの権利や契約、メンタルヘルスケアの講座やトークを開催した。今後も様々な取り組みを行っていく予定だという。

学生「批判受け止め、開かれた議論を」

いっぽう、記録集未発行に伴う契約不履行の報道を受け、留学生を含む複数の学生から東京藝大へ説明を求める声が上がっている。前館長の住友教授は、2023年度から同大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻(以下GA)で講義を再開したが、4月に開かれた学内向けオリエンテーションで作品紛失及び契約不履行について説明がなかったためだ。

東京藝大ではアーツ前橋の作品紛失を受け、学内に「キュレーション教育プログラム検討委員会」を発足させ、今年3月に検討委の報告書をGAのウェブサイトで発表した。昨年設立した全学的組織「キュレーション教育研究センター」で「今回の事案の教訓を活かしていく」などとした報告書に対し、様々な問い合わせや意見、批判がGAの学生にも寄せられている。そのため、研究科のメーリングリストで住友教授および研究科に説明を求める意見を述べた学生はこう話す。

「アートをめぐる重大な問題が起きたときに、批判を受け止め、議論し、公共性のある見解や解決策を提案することは、国内唯一の国立芸術大学の役割でもあると思う。再発防止策の一貫としてのキュレーション教育センター設立より、なによりも問題視されている事案を徹底的に検証したうえで、本質的な問題解決・再発防止に臨むべきではないか。所属学生が自由に質疑応答でき、学外からの疑問や意見にも対応できる、一般公開、あるいは開かれた議論が可能な場を設けてほしい」

2022年にアーティストの日比野克彦が学長に就任し、今年6月にJR東日本と包括連携協定を締結するなど社会に関与する姿勢を強めている東京藝大。こうした学外、学内からの指摘をどう受け止め、対応していくのだろうか。

白坂由里+永田晶子

白坂由里+永田晶子

しらさか・ゆり アートライター。神奈川県生まれ、千葉県在住。『ぴあ』編集部を経て、1997年に独立。美術を体験する鑑賞者の変化に関心があり、美術館の教育普及、芸術祭や地域のアートプロジェクトなどを取材・執筆している。 ながた・あきこ 美術ジャーナリスト、2022年より「Tokyo Art Beat」contributing editor。東京生まれ。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。新聞、デジタル媒体、雑誌などに寄稿。