『秒速5センチメートル』 © 2025「秒速5センチメートル」製作委員会
新海誠の人気アニメーション映画『秒速5センチメートル』(2007)の実写版が、10月10日に公開された。
主人公・遠野貴樹と、小学生のときに出会った篠原明里との関係を軸に、1990年代初頭から2000年代末までを3つの時間軸で描く本作。新海作品のなかでも特に人気の高い作品の実写化にあたり、監督には商業映画デビュー作となる写真家・映像作家の奥山由之、貴樹役に松村北斗、明里役に高畑充希が起用された。
原作アニメの公開から18年の時を経て届けられた実写版は、ともすれば「ノスタルジー消費」として受け止められる可能性もあるが、アニメの倍ほどの上映時間となった本作は、いかにして原作の表現、そして主題に挑んだのか。原作アニメから改変された箇所を中心に、新海誠についての論考も収録した著書『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ―デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』などで知られる北出栞が論じる。【Tokyo Art Beat】
*本記事は、映画の展開や結末に関わる記述を含みます。ネタバレを気にする読者の方は、映画の鑑賞後にお読みになられることをおすすめします。
新海誠のアニメーション作品『秒速5センチメートル』(2007、以下『秒速』)の実写版である本作を取り上げるにあたって、まずはこのようなリメイク企画が成立した背景にある、現代の商業映画を取り巻くメディア的な条件を明らかにする必要がある。そのためには、主題歌を担当する米津玄師の存在や、新海の「MV的」と言われる作風についての言及が不可避である。
本作の監督を務めた奥山由之は、2010年代初頭に写真家としてデビューした後、映像作家としてはCMやMV(ミュージックビデオ)の世界でキャリアを積み上げ、米津とは「感電」(2020)のMVディレクターとして初めて関わりを持った。国内を代表するMVディレクター出身の映画監督である岩井俊二、その影響を公言する新海誠も時に「MV的」と言われる作風を持つ作家で、こうした系譜の延長としてプロデュースサイドが奥山に白羽の矢を立てたことは想像に難くない。
しかし、この「MV的」という言葉はあまりにもマジックワードにすぎる。岩井作品、新海作品、そして奥山による本作から帰納するならば、劇中におけるボーカル曲の役割の重視や、(自然光由来かデジタルエフェクトかの差異はあれど)極端に露光した画面設計による主観性の強いストーリーテリングが特徴として挙げられるだろう。しかし新海作品に対して「MV的」と言う場合は、音楽のリズムに合わせて静止画を高速で切り替えるスライドショー的な演出スタイルという含意もある。このスタイルはPC1台での個人制作からキャリアをスタートした彼の出自に由来しており、米津がかつてボーカロイドクリエイター「ハチ」時代に自作していたMVにも通ずるものがある。
現代の商業映画は、新海=ハチ的な意味で「総MV化」していると言える。スマートフォンの普及により細切れな映像消費を行うようになった観客を動員するため、ショート動画の単位で切り出しやすいトピックがチェックリストのように並べられる。本作で言えば、『すずめの戸締まり』(2022)の松村北斗や『天気の子』(2019)の森七菜ら「新海ユニバース」を背景にしたスターシステムの採用がそれにあたる。彼ら彼女らのクロースアップショットはBGMや印象的なセリフを書き出したテロップと組み合わされ、TikTokなどのソーシャルメディアで流通する。個人制作によるリソースの乏しさゆえにスライドショー的なスタイルを選択せざるを得なかった新海が時代の寵児となっていった背景には、こうしたメディア環境の変遷もあったと言える。
奥山は、自身と同じMVディレクターの出自を持つスパイク・ジョーンズの「現実と非現実のあわいで人間を描く」作風に影響を受けたと語っており(*1)、本作の過去パートにおける柔らかな光に満たされた画面には、その影響が如実に感じられる。しかし、本来時系列が曖昧な作品でこそ活きる光の演出は、3つの異なる時代を描くという原作由来の要素の上ではたんなるノスタルジー表現として受容されてしまいかねない危うさがある。新海固有のスライドショー的なスタイルや原作カットの生真面目な再現もファンサービス的な印象が先行し、本作をもって奥山の作家としての真価を問うには材料不足という印象が残った。しかしこれは彼の力量不足というより、チェックリストを埋めるような企画しか稟議を通らない業界の現状や、そもそも「MV的」なる概念が未整理であることなどの構造的な問題が大きいだろうと筆者は考えている。