公開日:2023年4月27日

桑島智輝+安達祐実の夫婦写真プロジェクト「我我」レビュー。愛と写真のパラドックスが維持させる、写真家と女優の格別な関係(評:トモ・コスガ)

写真家・桑島智輝が妻で俳優の安達祐実を日々撮り続けた「我我」。深瀬昌久アーカイブス共同創設者兼ディレクターのトモ・コスガがレビュー。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

「我我」は写真家・桑島智輝(1979〜)と俳優の安達祐実(1981〜)によるプロジェクト。2014年の結婚以来、桑島は被写体として安達を毎日撮影し続けている。出版物としては、2015年からの約3年間にフォーカスした『我我』(青幻社、2019)、4度の旅行とパンデミック以降の生活を収めた『我旅我行』(青幻社、2020)、最新作の『GAGAZINE No.1』(QWAGATA、2022)を発表。夫婦間のまなざしの交差を通じて誰も見たことのない安達のイメージを引き出し、新しい「私写真」のあり方を提示してきた。同じく自身の妻を撮影し続けた作品群で知られる写真家・深瀬昌久(1934〜2012)のアーカイブス共同創設者兼ディレクターのトモ・コスガによる「我我」論をお届けする。【Tokyo Art Beat】

写真家・桑島智輝と俳優・安達祐実

桑島智輝は、主にグラビアなどのポートレート撮影を中心に活動する商業写真家だ。数多くの芸能人やアイドル、俳優らを写真に収めてきた。そのうちのひとりでもある俳優の安達祐実とは、安達の芸能生活30周年を記念して制作された2013年刊の写真集『私生活』の撮影がきっかけとなって結婚に至った。2019年に青幻舎から刊行された『我我』は、そんな桑島が撮った安達の日常を存分に見せる写真集である。仕事の領域を突き抜けた夫婦として結ばれてなお、ふたりは写真家と俳優の関係を継続させたわけだ。

2015年の結婚記念日に運転席から写された道の1枚から始まり、安達の妊娠、出産。そして日々。ふたりの結婚生活が、夫である桑島の眼を通じて、妻である安達の姿によって露わになる。その写真群にはふたりのコメントが添えられた。たとえば桑島が「ずっと目を見てくるから目をそらす」と綴れば、安達は「写真を撮っているときの彼を美しいと思う。純粋で汚れがなくて、冷たくて張りつめている。私はそこに浮かぶ、小さな舟のようなものです」と書き示し、撮る者と撮られる者それぞれの心境が窺い知れる。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

「小さな舟」になること

それでもなお、読者として戸惑いが浮かぶとすれば、「これはいったい誰の写真集なんだろう?」と、写真家・平間至が『我我』に寄せた跋文で素朴な疑問を露わにしたように、これが果たして桑島の作品集なのか、それとも安達の写真集なのかがどうにも判断つかないことから、一定の混乱を伴わずには見終えられない点だろう。

ここで注目すべきはそのタイトルだ。「我我」と書いて「がが」と読む。互いに対等であることを意識したうえで、その関係を「我々」と書き表すのではなく、あえて「我我」とした。どちらか片方が略される存在であってはいけない、といった細やかな意識が窺える。いっぽうで「我」を「が」と読むことで、たとえば「我の強さ」、あるいは「自我」といった類のエゴイスティックな側面を持つ言葉が連想されなくもない。

ともかく1組の夫婦が始めた「我我」なる共同プロジェクトは1冊の写真集で完結することなく、桑島が主導するかたちで現在も継続的に発表されている。出版物で言えば、2020年にはパンデミック以前と以後のふたりの旅写真をまとめた『我旅我行』を、2022年には『GAGAZINE No.1』を刊行。展示の形式でも発表を重ねており、4月26日からは三軒茶屋のtwililightで『我我』『我旅我行』のポップアップ展が開催される。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

商業写真というものを極端に言い表すなら、一種の虚構をイメージとして具現化することとも言える。撮影の対象物の先に潜在するクライアントや鑑賞者の願望を満たすことがひとつの目標になるからだ。その過程で撮影者としての自分らしさが求められることはそれほど多くない。だから商業写真に携わる者ほど、もっと別軸の写真制作も手がけたいと思うのは自然な話で、言ってみれば、誰よりも彼ら自身が心から肯定できるリアルそのものを表した写真が、彼らにとっての作品と呼べるものになるのだろう。桑島の場合、それが妻を撮ることだったわけだが、その撮影対象が国民的俳優でもあるという交錯が、このプロジェクトをややこしくすると同時に、ずっと味わい深いものに仕立て上げている。

『我我』で被写体を務める安達はというと、作品の発表は夫に一任し、その神秘さをうまい具合に維持し続けているが、それでも本書の中で目撃する彼女は存外なほど素顔を見せてくれる。きっと楽しかったに違いないときは腹の底から笑い、悲しいことがあったのであろうときは頬から涙を流す姿を見せる。そして子が生まれれば、母乳をやりながら食事を摂るリアルな姿さえ、カメラを握る夫の前に晒した。

そうした素の姿というのは、ふたりの自宅で撮られた写真が多く含まれるからとか、彼女が時々ノーメイクだからといったギミックによってそう感じられるわけでもなく、やはりそれがほかでもない桑島が見つめた安達祐実であり、その彼女が桑島智輝を見つめたという点が大きいのだろう。安達が本書に「出会った頃からきっと、私はわりと私だったんじゃないかと思う」と記したように、桑島だから撮れた彼女がきっと居たはずで、そのことを見抜いた安達は、それこそ自らを「小さな舟」と喩えたように、結婚生活をめぐる日々の写真の舵取りを桑島に託したのではないか。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

交差する夫婦のまなざし

美術評論家のジョン・バージャーは『イメージ—視覚とメディア』(原題『Ways of Seeing』)で、油彩画の持つ「本物らしさ」(pictorial likeness)の性質によって、風景や人物、食べ物、神話などが初めて所有可能なオブジェとなったと指摘した。そうであるならば、プライベートよりもパブリックなイメージが先行しがちな芸能人としての安達は、それこそ「所有するタブロー」に置き換えられやすい存在とも言える。その点で鑑賞者は安達祐実の「本物らしさ」を期待すると同時に、その姿をイメージというオブジェのかたちで所有したがるかもしれない。

だからこそ忘れてはならないのは、撮影を手がける桑島が安達の夫であるという事実であり、夫婦であるふたりのまなざしの交差によって初めて「本物らしさ」を超越した「本物」の安達祐実が姿を現すということだ。そうした像は、日常とは名ばかりの演出的パフォーマンスとも違って、ふたりが日々のなかで見つめ合うだけで成立する。夫の視線から確かめられる彼女のイメージをもってしても、従来の安達祐実として受け止められ続けるのか、あるいは誰も知らなかった彼女が見えてくるのか。とにかく安達は、その新たな旅立ちとしての「小さな舟」そのものになると決めた。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

エゴイズム/肯定としての写真

写真家が自らの伴侶を撮って作品にするという形式は、これまで様々な写真家が試みてきたことでもある。その一部始終を世に公開する手法はどこか息詰まるところがあり、たとえば深瀬昌久はその最たる例として挙げられるだろう。深瀬の被写体を務めた彼の妻は、「私をレンズの中にのみ見つめ、彼の写した私は、まごうことない彼自身でしかなかった」と結論づけ、深瀬を「救いようのないエゴイスト」と称した。そして、ふたりのあいだには夫婦であることよりも写真を撮るために一緒にいるようなパラドックスが生じたことから、しまいには離別の道を選ぶほどだった。

桑島と安達の「我我」からも同様に、それこそカメラアイに成り代わった夫に24時間365日見つめられるという安達の私生活ぶりが窺え、その容赦なさに読者としては唸るほかない。それでもなお自然体を保つ安達のストレートなまなざしと写真越しに目が合うたび、視線を浴びてますます輝きを増す女優としての気質を感じずにはいられない。愛と写真をめぐるパラドックスも、どうやらふたりのケースに限ってはカンフル剤のようだ。

あるいは深瀬が自身の妻を追い込んだように、写真とは本質的に撮影者のエゴイズムをはらむ表現なのかもしれない。撮影の場において表現を繰り広げるのは、どちらかといえば写される側に立つ被写体だというのに、仕上がった写真には撮影者の名がその表現者として刻まれるわけだから。それでも写真に撮影者が宿るとするなら、「カメラのシャッターを切るたび、人生にイエス!と答えているような気がするのです」という写真家ジョエル・マイエロヴィッツの言葉通り、まさしく写真とは、撮影者が目の前を肯定した瞬間に産声を上げるものだということを考え直しても損はないだろう。なにより、愛する者同士が互いの写真を撮ることほど、互いとその関係、ひいては自分の人生と選択を肯定する瞬間もそう訪れないことなどは、写真を撮ったことのある誰もが知っているはずだ。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

「私写真」から「我我写真」へ

それこそ幼少期からパブリックイメージを抱えてきた安達は、自分の日常を世に晒すことの因果を熟知しているに違いない。それでもなお、夫である桑島の視線を受け止めるだけでなく、その成果物としての写真群を世に出すことを認めたのもひとえに、愛するその人に自分の写真を撮ってもらうことこそが、その視点を通じて自分の実存を確かめさせてもらうことを意味し、そこに彼女なりの生きる確からしさを見たからではないか。

「私はカメラの前に立って、生きていることを許されている気がするのです」(*)と彼女自身が言い表したように、カメラの前では特別なにかを演じる必要すらなく、ただその前に立つだけで自分の存在すら肯定されることを、彼女は誰よりもよく知っている。

桑島智輝、安達祐実『我我』より

だから桑島にとって撮影者の表現が認められるとすれば、誰も見たことのない安達祐実のイメージを引き出すという、その一点に尽きる。そのためにも自らを被写体に重ねる思いで相手の眼に飛び込んだとするなら、主客未分。すなわち主体と客体が互いに混ざりあって未分の関係になったその瞬間を写真に表すことを指し、それこそが「我我」という彼らの言葉に集約されている。

この手の写真はかつて「私写真」と呼ばれ、写真家の周辺(その代表格となるのはもちろん妻なのだが)を題材にすることで撮影者その人を立ち上がらせる表現として成立してきた。言わば「私」の名のもとに周囲を飲み込みながら消耗するというスタイルだが、安達は桑島の妻であると同時に国民的俳優であり、そんな彼女を桑島が私写真の名のもとに飲み込むことはできない。だから「我我」としたのだと理解することもでき、「私写真」に代わる「我我写真」。それこそ、この時代の新しい写真の在り方と言えるかもしれない。写真とはつねに、撮影者と被写体の共同作業によって生まれるものなのだから。

*──桑島智輝『安達祐実写真集「私生活」』週刊プレイボーイ、2013年

トモ・コスガ

トモ・コスガ

とも・こすが 写真表現の現在を語るYouTubeチャンネル「言葉なき対話」を運営。アムステルダム在住。