「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」(国立新美術館、2026)展示風景
六本木の国立新美術館で、ファッションデザイナー・森英恵の生誕100年を記念する大規模回顧展「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」が開催されている。会期は4月15日から7月6日まで。
戦後の高度経済成長期の日本において、女性として社会の第一線で活躍し、アジア人として初めてパリ・オートクチュール組合の正会員となり、日本のファッションを世界へと押し広げた森英恵。彼女が理想として打ち出した人物像が「ヴァイタル・タイプ」だ。1961年、雑誌「装苑」1月号に記されたその言葉——「生き生きと生命力に溢れ、敏捷に目を光らせた女性」——は、デザイナーという枠を超えた森自身の生き方を体現するものでもあった。

「アーティストであり、働く女性であり、妻であり母である」という新しい人物像を自ら生き、ファッションを通してその姿を社会に投げかけた。第1章はそんな森のキャリア最初期に焦点を当てる。
キャリアの起点となるのは、1951年、新宿駅東口近くに開いた小さなスタジオ兼店舗「ひよしや」だ。森は洋裁店ではなく「洋装店」と自ら呼ぶことにプライドを持ち、服の仕立てにとどまらずバッグや小物も扱い、人の装い全体を手がけることを仕事と定義していた。周辺には武蔵野館をはじめ、複数の映画館や劇場が並び、学生時代の高田賢三や松田光弘、『装苑』編集長の今井田勲らが出入りし、通りに面したガラス張りのショーウィンドウに鮮やかなドレスが並ぶこの店は、界隈の若者文化の磁場のひとつとなっていた。

1953年のある日、「綺麗な服を作る元気のいいデザイナーがいる」との評判を聞きつけた日活のプロデューサーに見出された森は、映画衣装の世界へと足を踏み入れる。以後およそ10年間、日本を代表する多くの監督と仕事をする「修業時代」が続き、徐々に松竹、大映、東宝、東映からも声がかかるようになり、「五社かけもちのデザイナー」として知られるようになる。深夜まで働き、4時間睡眠で駆け抜けたこの時期を、森は後に「人を見る目と表現力を養った」時間として振り返っていたという。

しかし、日本映画史上最高の製作本数を記録した1960年、過労から体調を崩した森は初めて長期休暇を取ることになる。心身ともに疲れ果て、仕事をやめようかと塞ぎ込んでいたそのとき、今井田勲がパリに行くことを勧めた。翌1961年1月、パリへと向かった森は、各メゾンのオートクチュールのショーを見て回った。そしてなかでも心惹かれたのはシャネルだった。服に着用者の美しさを引き出す力を感じた森は、数日後、シャネルのアトリエへ自らスーツを仕立てに赴く。シャネルは森の黒髪を称え、それに合う色を提案し、細部まで神経の行き届いた服を仕立ててくれた。アーティストの作品でありながら、着用者に寄り添う着心地のよい服——目指すべき服の姿を見出した森は、仕事への意欲と活力を取り戻した。そして帰国後は既製服ラインの立ち上げを行うなどこれまで以上に精力的に働き、同年8月には既製服産業の確立されたアメリカへと旅立つのだった。
