公開日:2009年12月11日

ジカンノハナ展  ‐Time Blossoms‐

それぞれがもつ「時間」の意味

淺井裕介と狩野哲郎による滞在制作型2人展「ジカンノハナ」が横浜・黄金町の黄金町スタジオで開催中だ。ミヒャエル・エンデの物語『モモ』に出てくる「時間の花(=ジカンノハナ)」をモチーフに、「時間」をテーマにした展覧会である。2人は毎日作品を制作し、展示は毎日変化していく。

淺井と狩野はともに植物をモチーフに作品をつくる作家だ。しかし、扱う素材や制作の過程は大きく異なる。それなのに、なぜだか2人の展示を前にすると、同じ濃度の時間の流れと同じ類の居心地の良さを感じてならない。そして、ついには彼らの作品から目が離せなくなる。今回の展示は隣り合う2つのスタジオで、淺井、狩野とそれぞれ別々の空間に作品が展開されていた。

淺井の空間では、自身の代表作である《MaskingPlant》と窓に描かれた《泥絵》、7、8年前に描いたというドローイングで構成されている。MaskingPlantは、養生用のマスキングテープを壁や天井に貼り、その上をマジックで描いていく作品だ。あたかもその場に植物の根や茎が増殖していくかのようにテープはどんどん伸びていく。その途中には、植物以外の動物なども存在している。気づくと空間にはたちまち大きな「生き物」が出現する。自由に、そして生き生きと空間を這うこの生き物が、この先どう成長するかは予測不可能。だからこそ、淺井の手元から伸びていく植物に吸い寄せられ、どきどきしてしまうのだ。

とにかく描くという行為、自然に変化していくことが楽しい。ひとつのピークに向かって完成されたものを観てもらうことが目的ではない、と淺井は言う。

「MaskingPlantはテープが貼れる場所であれば、どこでも描けるし、終わりがない。僕自身はとっくに限界を感じていても、観る人が勝手に、あそこにあったらおもしろいね、とか、まだまだ出来るね、って簡単に言いやすい性質の作品です。そういうことに自分が引っ張られながら、どんどん作品が巨大化していきます。それはとても幸せなことで、自分自身が作品の終わりを決めたりしないですむ。作品は完成されることはない。撤去されたときに、実はここからがスタートなのかもしれない、といつも思います」

会期中、MaskingPlantは成長しながら空間を変化させていく。それらは、やがて「標本」として収穫される。徐々にMaskingPlantが剥がされ、最後には跡形もなく消え去るのだ。 (淺井は壁などに這わせたMaskingPlantを剥すことを「収穫」と呼び、剥したテープを捨てずに他のものに作りかえていく)

スタジオで一際その存在を輝かせているのは、外に突き出た窓に描かれた泥絵だ。

写真:淺井裕介

「自分にとって描くことはすごく日常的な行為であると思っているので、なるべく手の届くところにあるもので絵を描きたい。食べ終わったスパゲティのお皿に絵を描くようなことと気持ち的には同じです。土とか水とか石とか光とか、そういった素材を最終的には使いこなせるようになりたいな、とずっと考えていて。泥絵はすでに2001年くらいから考えていた。でも、20歳そこそこのヤツが簡単に使っていいものじゃないな、まだ早いな、と思っていたんです。それで何段階か隔てて、マスキングテープに手を出していきました。泥絵は昨年の4月にインドネシア(国際交流基金が開催した「KITA!! : Japanese Artists Meet Indonesia」展の一環でジョグジャカルタにて展示)に行ったときにはじめて制作しました。インドネシアは植物のパワーがものすごい。熱帯雨林がとても多く、うわーっとびっくりするぐらい大きな葉っぱだとか、巨木とかが生えていて、それを支えている土って何だろうと思った。土を使うならこのタイミングで描くしか無いと思って作ったのが始まりです。そのあと、日本に帰ってきてから、泥絵は13箇所くらいでやっています。一度手にして始まってしまえば、まだ早いとか理屈をいっている場合じゃなくなるんですね」

泥絵は水で簡単に落ちる。会期終了後には跡形もなくなる。しかし、これを淺井は絵が消えていくよりも、土に戻っていくような感覚だ、という。そして全ての絵が消え去った時に自分の中に湧き上がってくる力のようなものを感じるのだという。

一方で、狩野の空間は農業・園芸用品やペット用品、野菜や果物などを独自の「均衡」を保ちながらスタジオに配置する。鳩の餌である麦や実に、毎日水をやり、芽吹かせる。そしてその空間に一羽のチャボ(小型の鶏)を放し、植物と人間、そして動物との関係性を提示するようなインスタレーションを行っている。10月に山口での滞在制作、展覧会で行った《respective gardens/それぞれの庭”》というインスタレーションを発展させた形になっており、チャボは狩野の作品に予測不可能な存在として介入している。
(実際、このチャボは飼いはじめて2日目で突然タマゴを産み、周囲を驚かせたのだ!)

狩野はこれまで、排水溝や壊れた壁の隙間などに、種をまき、発芽させる《発芽―雑草》というインスタレーションを行ってきた。

「たとえば建物の床がひび割れていたりすると、人間にとっては破損とか劣化とかちょっとネガティブな変化になる。ところが、そのひび割れに植物の種が入ると、水をあげれば根付くというポジティブな可能性として捉えることができるな、と思ったんです。同じ空間でも、その価値を決めるのが人間なのか、植物なのか。目線を変えて考えてみるのではなく、実際にそこに植物が存在すれば、違う価値観があることがリアルに感じられた。植物とはだいぶ仲がよくなってしまったので、もっと自分がわからないような人や存在と会話がしてみたい。同じ空間において、別の価値観があるのを見てみたかったんです」

些細なことでも自分が「ちょっと見てみたい」と思うものを観るために、自ら積極的に仕掛けていく。この空間で狩野は鳥にとっても、人間にとってもアウェイな感じではなく、同居できる空間をつくり、その上で新たな均衡を探ろうとしている。

「(芽吹いた)草はどんどん育ち、きっとそれを鳥はついばむだろうし、僕が考えているバランスとは違うところでなにかが起きる。そういうことを展開していきたい。理想的には彼女(チャボ)が歩いてフンをしたら、そこに水をやりたい。フンの中から芽が出てきたら楽しいんじゃないかな」

今回は諸々の問題や制約があってそこまでは出来ないが、いつかそういうことをしてみたいと言う。狩野にとって鳥は種をまく大先輩なのだそうだ。

「路上の種や果実を食べ、歩いたり、飛んだり、フンをして種が蒔かれる。鳥がいることによって植物の世界が少しずつ広がっていく点で鳥にリスペクトしています。」

この空間の中で植物だけが移動できないのが不公平だ、とぽつりと言った。ひょっとしたら、会期中にフンの中から芽が出てきたりするかもしれない…! 

photo: 狩野哲郎 / Tetsuro KANO

淺井が作り出す空間と、狩野が作り出す空間。2つの空間を隔てる壁は、畳1枚分ほど開いていた。(聞けば私が訪れる3時間前に取っ払ったのだという!) この畳1枚分の隙間から、お互いの空間が少しだけはみ出している。狩野の展示が淺井の空間に少しだけ置かれ、チャボが侵入する。淺井のMaskingPlantは狩野のスタジオの壁をつたう。この隙間を通して互いの空間からは、相手の様子をちらちら伺うことができる。相手が作業しているのが見える分、お互いがお互いを意識し、影響を与えあいながら制作を進めていく。

「これって、淺井くんと遊んだり、いたずらをしたりしているときの距離感に似ているんだよね。」
と狩野は言った。

淺井の空間では、MaskingPlantがどんどんその茎を延ばし、数時間で目に見えるほどの変化をもたらす。一方、狩野の空間は確実な変化をもたらしてはいるが、実にゆったりとした時間が流れている。自ら手をかけて植物を育てる淺井と、植物の種を蒔き、空間を用意したら後はそれぞれに委ねる狩野。作品に対するアプローチや、そこを流れる時間の速度が全く対照的な2人。けれども、最終的に両者の作品は、後には何も残らない、という点で共通している。

絶えず変化していく彼らの作品は、植物が成長していくように、そこにある環境に順応し、そこを流れる時間と対話しながら、成長していく。もしかしたら花を咲かせるかもしれないし、実をもたらすかもしれない。しかし、自然界にある植物がそうであるように、時が来たらすべて消え去ってしまう。だからこそ、一瞬、一瞬を彼らは楽しみ、大事にし、その瞬間と対話をしながら、次のステップを見つける。決して二つと同じ場面が存在しないこの空間は、観る者にとっても変化の過程の一瞬、一瞬がそれぞれの意味をなす。また、それぞれに新しい発見をしていくかもしれない。これほどまでに、いまこの「瞬間」をリアルに感じられる展覧会は他にないだろう。

Miki Takagi

Miki Takagi

横浜生まれの横浜育ち。アートとは無縁の人生を送ってきたが、とある企業のイベントPRに携わった際、現代美術と運命的な出会いを果たす。すぐれた作品に出会うとき、眠っていた感覚や忘れていた感覚が呼び起こされる、あるいは今までに経験したことのない感覚に襲われ全身の毛孔が開くような、あの感じが好き。趣味は路地裏さんぽ。