イラストレーションは絵画や彫刻のような純粋芸術とは異なり、応用芸術として位置付けられている。そのため、アートというジャンルにおいては用意さ れたテキストや詩、教科書、もしくはその他の文章と組み合わされた作品形態を取って初めて完成された「作品」となる。いささか、純粋芸術に比べ見劣りする ように思われるが、文学や報道、教育といったジャンルと融合することが可能な形式である。
一方でアートへの入り口という役割をも果たしうる。それは自己の表出が色彩、筆致、空間構成によって可能だからであり、テクストでイメージ化される 世界なり物語といったものを視覚化し得るからだ。そのため、文字が伴わないイラストレーションは作品として未完であり、絵画や彫刻等といったそれ自身が自 立して作品となるものと比較するとより明確になる。だから「紙クズ」なのであろうか。否である。
この臨界点に達するにはカバコフが生活した環境ないしは作品として扱われる対象についての知識を要する。この点にこそ、カバコフの作品が単なるイン スタレーションに留まらない理由がある。しかしながら、そのトータル・インスタレーションは「自分のため」に制作されたアート作品に通底するものであっ て、彼が「職業」としてつまり「自分のため」ではなく、ソヴィエトで生活の糧を得るため(カバコフ は「彼の手によるもの」と述べている)制作した絵本を展示しているのである。今回の企画展はざっと述べてきた作品傾向とはやや趣が異なるだろう。
加えて、イラストに付随するテクストが抜かれたかたちで展示されているため、話の内容を想像してイラストを楽しむことができ、そこに描かれていたで あろう物語を辿って鑑賞するため、さほど小ささは気にならない。また、児童書向けのイラストが展示されていることもあって子供を伴い鑑賞した場合に彼等に 読み聞かせるよう、鑑賞者の想像力と話術が問われるとも言える。トータル・インスタレーションで味わうことのないカバコフの描写力を窺い知ることが出来よ う。
こうした能力ないし力量は彼自身の創造性から生み出されたものではなく、出版社による検閲がそうさせたとカバコフ自身は述べている。つまり「公式の スタンプを押されて」(出版許可が下りて)ソヴィエト社会に出回る作品(この場合では絵本)にクレジットされた「イリヤ・カバコフ」という作者は置き換え 可能な存在であり、それを生み出す本当の作者は出版社であり、それを統制するソヴィエト共産党である。
このように捉えていくと、カバコフが今回の展示作品を「紙クズ」と称した理由が徐々に明らかになる。イラストレーションが持つ「未完」としての作品 形態ではなく、自らの手による作品としての作者が検閲によって奪取されることへの忌避の現れとして見ることが可能だ。しかし、カバコフの作品を含めた政治 や社会への距離の取り方(彼は「distance」という単語を用いて表現していた)を考慮すると「クズ」というのは、配置と羅列によって完成するソヴィエト社会に共有された記憶の断片であり、イデオロギーのように方向性を持ったものではなく「クズ」だからこそ見る人によって投影する意味が分散する機能を果たす。
クズ=無意味というメタファーがカバコフの発言に組み込まれているのである。この点は、同じくユダヤ系の文芸家ヴァルター・ベンヤミンが「ゴミ」を 集める都市の浮浪者を新たな世界の担い手として看破した眼差しと似ている。無意味だからこそ、どこかに愛着を抱き、一般了承とは異なった体系によって蒐集 してしまうという行為。それはテクストが抜け落ちた状態でイラストが展示されている形式によっても補うことができる。オープニングの対談で批評家ボリス・ グロイスが述べていたように、「白」というスペースによって否が応でも鑑賞者の想像力を掻き立て、何かしらのモデルを投影して作品と捉えようとするから だ。
今回の企画展が表題とする『世界図鑑』とは、かつて機能していたソヴィエト社会から切り離され、本来の機能を果たさなくなった「紙クズ」がセクショ ンによって羅列されて初めて1つの体系をなすということを指し示している。図鑑としてモデル化される「世界」は果たしてトータル・インスタレーションと同 じように、カバコフが持つ記憶の断片で構築されるものなのか、鑑賞者に委ねられた「世界」なのか。足を運んで実感して頂きたい。
写真提供:神奈川県立近代美術館 葉山