
敷根功士朗「宙ぶら輪廻」会場風景 Photo by Munemasa Takahashi 画像提供:Kanda & Oliveira
強調されるはずの瞬間が、かえって空洞化していく。そんな経験に、私たちはいつの間にか慣らされている。敷根功士朗の初個展「宙ぶら輪廻」が、西船橋のKanda & Oliveiraで5月16日から6月13日まで開催された。
敷根功士朗は東京を拠点に活動するアーティスト。東京藝術大学彫刻専攻を卒業後、同大学大学院グローバルアートプラクティス専攻を修了。映像、彫刻、パフォーマンスを横断し、日常の断片や身体的経験を再構成することで、知覚の変容を誘発する空間を生成してきた。現代の環境における身体感覚と社会的回路のあいだに生じる宙吊りの状態、そして記録と記憶、現実と再現のあいだのズレに焦点を当ててきた。
映像と彫刻を横断する本展は、ショート動画的な「ハイライトの連続」への関心から出発し、因果から切断された「結果」だけが反復される状況を作品として立ち上げる。そのとき出来事は宙吊りとなり、感覚や感情が生成される回路そのものが、かすかな違和感とともに姿を現す。本展を、藪前知子(東京都現代美術館学芸員)がレビューする。
なお、同ギャラリーでは、マルタ・パルミエーリの個展「刻層 / STRATA」が9月13日まで開催されている。1階ではコレクション展として敷根の《Affection: Warm like Paris in the Month of May it was》(2019)も同時期に見ることができる。この機会にあわせて足を運んでみてほしい。【Tokyo Art Beat】
映像の発明によって、人間は時間を可視化し、さらにそれを編集する力を得た。様々な時間に関わる語法が生み出されるなかで、特筆すべきなのはアルフレッド・ヒッチコックによる「サスペンス」というジャンルの体系化だろう。よく知られる「テーブルの下の爆弾」というヒッチコックのたとえは、危険の存在を観客のみに示し登場人物が知らないという状況が、「宙吊り=サスペンス」を生み出す技術であることを伝える。ある謎が設定されたのち、その解明ではなく、そこに至るプロセスの時間が表現の主軸となることによって、「ミステリー」や「スリラー」と呼ばれていたジャンルが、「サスペンス」という新しい名を持って広く普及することになった。しかし時代は下り、現在の私たちは、たとえ爆弾の存在を知らされなくても、ある様式——誰かが暗闇を歩く、ドアをすり抜けるといった日常的行為が引き延ばされた状態を映像によって見せられるだけで、何かを待つという宙吊りの状態に置かれる。「宙ぶら輪廻」と題された敷根功士朗の初個展の、最初の部屋に展示されている映像作品は、まさにその状態をとらえるものだ。時に誰かからの視点を強く意識させつつ、ひたすら誰かの移動の時間を映している映像を眺めていると、私たちの心理が、すでに映像の形式にいかに侵食されているかを考えさせられる。

いまや映像とはアテンション(注目)を呼び込むフレームであり、そこに映っているものがいかに取るに足らないものであっても、それを「撮るに足る」とする意味が自動的に付与される。ジョナサン・クレーリーは、1999年の『知覚の宙吊り』の中で、近代のメディアの発展をアテンションの管理と結びつけて論じた。ここでいう「宙吊り」とは、注意と散漫の間で揺れ動く視覚を指していたが、近年のクレーリーは、アテンションを24時間休まず拡大する資本主義プラットフォームを批判する論を展開している(*1)。現在、スマートフォンとSNSのアカウントとともに暮らす私たちは、自分の生の瞬間すべてが潜在的に対象化される時代に生きている。高じて、生のほうを、「映える」——たとえフィクションであっても「撮るに足る」ものに変える欲望に囚われるという反転が起こっているのは、すでに指摘するまでもないだろう。
さらにこの生の緊張は、ハイライトばかり続くショート動画やサビが延々転調するポップス、いわゆる「ドーパミン中毒的な」コンテンツの興隆にも結びついている。展覧会のステイトメントの冒頭で、敷根は自身の制作の動機として、ショート動画に象徴されるような現在の知覚形式に対する興味を挙げている。いっぽうで、それが蔓延することで、「見どころ」であるはずのものがかえって機能しなくなり、すべてが宙吊りとなり均質化していく事態についても触れ、それが作品構造に反映されているのだとも述べている。
