手放さない人たち──ニューヨーク、テクノロジーと介入の現場から。「エイブリズムに陥らないテクノロジーのあり方」を考える6の実践(文・田中みゆき)

WAN第1期採択クリエイターとしてニューヨークに滞在した田中みゆきが、現地のアーティストや研究者との交流をもとに綴る

フィネガン・シャノン Inside joke between me and everyone who has had to make an access request 2023

様々な人が情報やサービスを利用できること、またその度合いを示す「アクセシビリティ」の視点。しかしその設計がマジョリティや健常者の基準にあわせようとするとき、そこにはエイブリズムに陥る可能性が潜んでいる。そして、テクノロジーは、ともするとそれを加速させるツールとなる。

キュレーター、アクセシビリティ研究者、社会福祉士の田中みゆきは、メディアアートクリエイターの育成・支援を行う「WAN: Art & Tech Creators Global Network」(*)第1期採択クリエイターとして2025年秋からニューヨークに滞在し、「エイブリズムに陥らないテクノロジーのあり方」をテーマに研究を進めた。

AIをはじめ日々進化するテクノロジーに対し、その悪影響も議論されるようになった近年、デジタルデトックスなど意識的に距離を置こうとする動きも広がっている。しかし、テクノロジーを拒否できること自体、それでも不便なく暮らせる人々が持つ特権でもあるかもしれない。本稿では、田中がニューヨーク滞在中にアーティストや研究者たちとの対話を通して見出した、テクノロジーを用いた社会への"介入"の実践を紹介する。【Tokyo Art Beat】

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テクノロジーに抵抗する若者たち

ニューヨークに滞在中のある日の午後、厚紙でできたカラフルなとんがり帽子をかぶり、段ボールで作った携帯やパソコンを掲げて練り歩く若者たちに出くわした。最初はパフォーマンスかと思い通り過ぎかけたものの、なんなのか気になり、とんがり帽子を被った集団にいたひとりの女性に尋ねた。「Luddite(ラッダイト)って知ってる? 反テクノロジーデモよ。最近盛り上がってるの」と彼女は教えてくれた。ラッダイトとは、19世紀初頭の機械化によって賃金の低下や労働力の削減を受けたイギリスの労働者グループが、機械を破壊することで抗議した運動のことを指す。現代においては、より広い意味で新しいテクノロジーに抵抗する人のことを指すようだ。テクノロジーと能力と障害の関係について考えていたわたしは、迷わずついていくことにした。ウエストヴィレッジのアップルストア横の広場で最高潮を迎えたデモでは、20歳前後と思われる人たちが代わるがわる前に出て、テクノロジーによっていかに自分の人生が貧しいものになったかを熱く語った。iPhoneで子守をされてきたこと、生まれたときからそうしたテクノロジーと切り離せない人生を送ってきたことへの不満が次々と語られた。

ラッダイトによるデモの様子 撮影:筆者

もらった帽子の裏側に書かれたメールアドレスにメールを送ると、イベントの予定が届くようになった。しばらくして届いたメールに書かれていたのが、「Delete day(削除の日)」のお知らせだった。

指定されたトンプキンス・スクエア・パークに向かうと、カラフルなピクニックシートがずらりと敷かれていた。徐々に集まってくる人たちと座り、SNSがなかったら何に時間を使いたいかを話し合う。ビッグテックを介さずに物理的に集まる場についてのアート情報サイトも教えてもらった。イベントは主催者のカウントダウンとともにクライマックスを迎え、一斉に削除ボタンを押したときには、大きな歓声があがった(SNSのほうが一枚上手で、引き止められてすぐには消せないというオチもあった)。必ずしもテクノロジーすべてを否定しているわけではなく、現実世界で人と出会って対話する時間をもっとつくりたい——そういう思いが伝わってくるイベントだった。

「Delete day」の告知ヴィジュアル

主催者のひとりに話を聞いた。グループの名前はなく、代表もおらず、責任を分かち合うあり方を模索しているという。だからそれぞれのイベントも企画する人によって趣が異なる。「テクノロジーをやめることが目標じゃない。使い方を学ぶことが目的」と彼女は言った。彼女のスクリーンタイムは1日約1時間。SNSやYouTubeは使わず、映像を鑑賞するときは必ず誰かと一緒に、映画館かコミュニティ上映で見るという。空いた時間は編み物や読書、執筆に充てている。妹たちが学校や家でテクノロジー漬けになっているのを見て、ハグや目を合わせることの感覚を次の世代に残したいと思った、と話した。

この頃、ニューヨークの地下鉄のあちこちに「Friend」と名付けられたウェアラブルAIの広告が現れていた。白地に丸いペンダント型のプロダクトの隣に、辞書の定義を模したコピー——「Friend:きみの声に耳を傾け、応答し、応援してくれる人」。広告が掲示されるや否や、「AIは友達ではない」「AIはあんたが生きてようが死んでようが気にしない」などの落書きが次々と書き加えられていった。

落書きされた「Friend」の広告

そんな折、「Friendの代表と公園で対話することになった」というメールが届いた。何が起こるのだろうと行ってみると、そこではラッダイトの一部が、Friendやユーザーに扮して寸劇を繰り広げていた。Friendの代表を装った仲間と対峙し、押し問答の末にFriendを追い出すという筋書き。その一部始終をメディアが熱心に撮影していた。

その様子を見て、わたしは一気に醒めてしまった。気づけばメンバーのほとんどが白人の健常者で構成されていたのに加え、彼らがSNSとは別のかたちでの承認欲求を満たしているだけに見えた。「人間性を育みたい」と訴えていた彼らが求めた先が、わかりやすい「勝利」というのも子供じみて見えた。「テクノロジーに抵抗できるのも特権なんだな」とぼんやり思いながら、それ以上追うことはやめた。

わたしが直接話した主催者のひとりは、その問いに自覚的だった。「オフラインでいることは、ある種の特権でもある」と彼女は言った。テクノロジーは道具であり、その存在は否定しない。でも何千年も人々は技術なしで生きてきたはずだ、とも。その言葉は誠実だったが、ではその特権にどう向き合うのかというその先を照らしていたわけではなかった。

運動を追ううちにずっと気になっていたのは、テクノロジーを手放せない人たちのことだった。視覚障害のある人、移動に困難のある人、孤立した環境に置かれた人——そういう身体にとって、テクノロジーは社会参加の重要なツールでもある。いっぽう、それは健常であることを基準に設計され、障害のある人を例外やオプションが必要な存在とするエイブリズム(ableism)とも切り離せない。

その問いを持ったまま、わたしはニューヨーク公共図書館(NYPL)に向かった。そこで研究フェローとして写真アーカイヴを研究している全盲の研究者、レオナ・ゴダン(Leona Godin)に会うためだ。

「Delete Day」の様子 撮影:筆者
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