公開日:2022年11月9日

星野太×沢山遼「芸術/批評のポリティクス」対談。なぜ美術批評は困難なのか?

旺盛な評論活動を展開する美学者の星野太と美術批評家の沢山遼が初めて対談。芸術批評の難しさやその歴史的な力学について語り合った。

星野太(右)と沢山遼の対談風景。東京・恵比寿のNADiff a/p/a/r/tにて

2021年末に刊行した『美学のプラクティス』(水声社)において、「崇高」「関係性の美学」など近年の美学・芸術理論の重要なテーマをめぐる自身の考察を提示した美学者の星野太(1983年生まれ)。芸術作品に内在する複数の闘争に焦点を当てた批評集『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)で知られる美術批評家の沢山遼(1982年生まれ)。

ともに美学・芸術のフィールドで評論活動を展開し、同世代でもあるふたりが考える美術批評の難しさとはなにか。これまでの芸術批評の歴史に含有されてきた社会・政治的な力学とは? 星野の『美学のプラクティス』刊行を記念し、沢山をゲストに迎えてNADiff a/p/a/r/t(東京・恵比寿)で今年2月に行われた初の対談をお届けする。【Tokyo Art Beat】


星野:批評に内在するポリティクス(力の拮抗)

星野太 今日はわたしの『美学のプラクティス』の刊行記念イベントということで、沢山遼さんとの対談を企画していただきました。
沢山さんとはもう10年くらいのお付き合いですが、つねに存在を意識しているおひとりです。沢山さんは2020年に『絵画の力学』という本を出されましたが、その直後にアメリカに行かれて、なおかつ当時はコロナ禍の真っ只中だったこともあり、刊行記念イベントなどは行なわれなかったんですね。そのような経緯もうかがっていたので、今日は沢山さんの『絵画の力学』についても話題を広げていければと思っています。
今日の座談会のタイトルは「芸術/批評のポリティクス」としました。ふつう「ポリティクス」というと現実の「政治」のことが真っ先に想起されると思いますが、ここでは広く「力の拮抗」というニュアンスを込めているので、あえて「ポリティクス」としました。これは沢山さんの『絵画の力学』における「力学(ダイナミクス)」と、あるていど置換可能な概念ではないかと思っています。わたしの本で使っている「ポリティクス」にせよ、沢山さんの「ダイナミクス」にせよ、絵画なり批評に内在している「力の拮抗」のようなものを浮き彫りにしようとしているのではないか。これまでの沢山さんのお仕事を拝見して、そのように思ってきました。

沢山遼 我々は同世代で同じように美学や芸術のフィールドで活動してきたのですが、ふたりでお話しするのは今日がはじめてです。ようやくこういう機会が来たなという感慨があります。タイトル「芸術/批評のポリティクス」に関しては、ぼく自身も星野さんのお仕事との共通性で意識してきたことだったので、驚くと同時に、嬉しくもありました。
星野さんがご指摘のように、芸術作品を構成している様々な要素や事物や物質、あるいは諸形式のせめぎ合いを、「ポリティクス」としてとらえるという狙いは当初からありました。
『絵画の力学』というタイトルは、リンダ・ノックリンの『絵画の政治学』(坂上桂子訳、ちくま学芸文庫)を意識していました。しかしぼくの本では、人間的な係争とか世俗的な闘争を超えた意味で政治の問題を考えてみたいところがあった。そういう広い意味でのポリティクスを考えたときに、必然的に美学あるいは芸術という枠組み自体が、その議論の成立において関わってくると思うんですね。
『美学のプラクティス』の序文「美学、この不純なる領域」(9~26頁)で、星野さんは、美学はきわめて非自律的な、不純な領域であるというふうに書かれています。バウムガルテンによって18世紀半ばに「美学」が成立したとき、すでに美学という領域のなかにある種の構成的な亀裂が書きこまれている。つまり、美学は感性についての学であると同時に、芸術についての学でもあり、美についての学でもあるというように、いくつかの領域に分岐してしまう。それらを取りまとめる仮の焦点として美学がある。これはギリシャ語の「aisthēsis」に由来する「ästhetisch」を日本語に翻訳するときに「感性的」「美的」「美感的」などと、様々な訳し方をされたわけですね。ここから推測されるのは、要するに美学が、不確定性を内在的に抱えていたことです。

沢山:美術批評の構成的亀裂


沢山 もうひとつは、美学を実践に移し替えるときに生じる亀裂がある。美学が対象とするのは「美」という理念的な領域ですが、これが芸術についての学でもあるとすると、それは具体的な、物質的な次元、あるいは我々の経験や感性の基盤となる感覚的対象を記述するものにもなる。ゆえに、理念的、認識的な次元と、物質的、経験的な次元が、美学の中で接続されると同時に引き裂かれることが起きる。
これは、美術批評においても生じる問題です。批評家は、理論家であると同時に実践家であることを余儀なくされる。つまり、理論的な問題と具体的な作品のあらわれをすり合わせていかなければいけないのだけれど、そこには乗り越え不可能な矛盾が生じるからです。
もうひとつは、芸術を、感性を表出するものだととらえたときに生じる齟齬です。美術・芸術は元々、技術(art)を指す言葉だったわけですから、芸術はかならずしも感性や主観を表出する術ではなかった。しかし、芸術や美学が現れたことによって初めて従来の技術体系から区別される個々の人間の主観が見出された。
つまり美学は、そもそも複数の領域・要素に分岐するような構成的亀裂を抱えている。が、ゆえに様々なものの接続原理としても機能してきたということです。
ポール・ド・マンも『美学イデオロギー』(上野成利訳、平凡社ライブラリー、2013)のなかで、なぜカントやヘーゲルが、彼らが芸術作品には関心がなかったにもかかわらず、美学や芸術を重視したかという問題に触れています。ド・マンによれば、認識と経験、言語と現象などを結びつけるのは、美という構成原理ないしは接続原理であった。美学は、さまざまな異質なものを、一元化、あるいは全体化する。そこに、美的領域がもつイデオロギーを見出すことができるがゆえに、当然それはナショナリズムなどにもつながってくるわけですね。ゆえに美は、政治的であり、イデオロギーの問題なのだと。
星野さんが『美学のプラクティス』のなかで書かれていた議論(「リレーショナル・アートをめぐる不和――ジャック・ランシエールとニコラ・ブリオー」121~162頁)は、この問題とも関わるかもしれません。ランシエールは、政治を感性の「分割=共有」という見地から見ている。ポリティクスの起源には、感性を互いから分離すると同時に共有させる技術があるとランシエールは言うわけですね。この場合、政治とは感性の闘争です。だからこの「分割=共有」を通して、政治は美的=感性論的な問題に関わる。この条件においても、美は、接続原理として働くと同時に、接続解除の原理としても働くということです。

星野太『美学のプラクティス』(水声社、2021)

沢山 星野さんの本のタイトル自体がこの問題と関わってくると思います。この本の英語タイトルは「Practicing Aesthetics」つまり「美学を実践する」となっています。美学は先ほども言ったように、理論的なものと実践的なもの、理念的なものと経験的なもの、美と芸術作品を結び付ける。しかしそれらのつながりは自明ではない。星野さんの議論は、そこにある亀裂を指摘しつつ、かつそれを実践することは可能か、両者を接続することは可能かということを問うていると思う。
たとえば、本書には池田亮司さんと宮島達男さんの作品を論じている章(『美学のプラクティス』61~79頁)があります。そこで星野さんはカントに由来する「数学的崇高」という美学的トピックを、具体的な作品の局面で記述することは可能かを問題化する。そこにも美学がはらむ理念と実践の亀裂を扱い、かつそれを接続するという部分がある。それはやはり、批評というプラクティス自身に、絶えず再帰的に関わってくることだと思うんですね。理論的、抽象的な思弁と経験、現象、あるいは作品の物質的なあらわれを、いかに調停するかという二重性に、書き手は必ず巻き込まれてしまう。だからいかなる書き手も美学から無関係ではあり得ない。星野さんの本を読んで、そのことを改めて自覚させられました。
これは星野さんの書き手としてのあり方と関わると思うんですね。星野さんは、哲学、美学の領域において非常に高度な議論を展開しながら、かつ美術批評や芸術批評を同時に行ってきた。なぜそんな大変な仕事をしてきたかは、ぼくにとって謎でした。しかし、美学というジャンル自体がそのような構成的な亀裂をはらんでいるとすると、「美学を実践する」という本のタイトルが、星野さん自身の仕事を要約するようにも見えるのですね。

星野:美学こそが政治の根底をなしている

星野 本質的なところに切り込んでくださってありがとうございました。まず、美学が何かを接合する原理であると同時に、そこに亀裂を入れる原理でもあるのはその通りですね。ぼくは「美学」という日本語の訳語に愛憎入り交じるところがあるんですが、そもそも明治期にはまったく訳語が安定しなかった。はじめ、西周が頑張っていろいろと訳し、そのひとつに「佳趣論」、つまり趣味をよくするという訳語がありました。かなり本質を突いた訳語だと思うんですが、いかんせん語呂が悪すぎて定着しなかった。ほかには森鴎外が考案した「審美学」があったけれど、同じく定着しなかった。中江兆民が「美学」という簡潔な訳語を生み出して、これが現在に至るまで定着することになったわけです。これが、日本語における美学の歴史にとって幸運なことであったのか、それとも不幸なことであったのかという問題に、最近は関心があります。
さて、やはり最大の問題は、美学という学問分野が「美」「芸術」「感性」という本質的には異なる領域を接合する原理として生まれてしまったことです。他方で、さきほど沢山さんが言ってくれましたが、ランシエールが言っているような、「美学こそが政治の根底をなしている」という認識が、現在に至るまでずっと自分の指針のようなものとしてあります。ランシエールの『美学における居心地の悪さ』(Galilée, 2004、未邦訳)を読んだのは学部生の頃でしたが、一読して、これが自分にとっての美学の指針だという感覚を抱きました。自分にとって美学の問題というのは、最初から政治の問題だったんですね。
その次に指摘してくださった点も、非常にクリティカルなものでした。なぜ自分が理論的な書きものだけでなく、批評を書いてきたかというと、それがまさに自分の「美学」観にかかわる問題だからです。それはたんなる理論(テオリア)であるだけでなく、実践(プラクシス)でもなければならない。そういう分裂がないものには、あまり魅力を感じられなかった。

沢山遼『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)


星野 ぼくの方からも沢山さんの『絵画の力学』について、いくつかコメントしたいと思います。今回あらためて通読してみて思ったのは、やはり同時代に沢山さんがこういうものを書いていてくれていたから、どこか安心できたところがあるということです。沢山さんは「かつて日本にあった現場主義的な批評」に対して距離感があると以前言われて、具体的には東野芳明、中原佑介、針生一郎のいわゆる「御三家」の美術批評からはまったく影響を受けてないと。むしろレオ・スタインバーグのような人に影響を受けて批評を書きはじめたとおっしゃっていた。ぼく自身のスタンスもそうなんですが、そういう現場主義的な批評に対して違和感がある一方で、そういうところからまったく切り離されたところで書かれているようなものにも違和感があるんです。沢山さんもそういうものはお嫌いだと勝手に思っているのですが(笑)。

沢山 はい。

星野 そのどちらでもないところが重要で、これは『絵画の力学』に収められているポロック論も、ジョセフ・アルバース論もそうなんですが、沢山さんは作品と理論を徹底的に行き来しているんですね。つまり、たんなる作品分析でも言説分析でもなく、作品分析・言説分析・歴史的なコンテクストがつねに一本の批評の中で織り上げられている。この立体性は沢山さんの仕事の大きな特徴だと思います。
本の構成についても聞いてみたいと思っていました。『絵画の力学』は3部構成で、第Ⅰ部「絵画の思考」は、ポロック、福沢一郎、ジョセフ・アルバースらの絵画論が中心です。第Ⅱ部「事物経験の位相」では、高松次郎、カール・アンドレ、ロバート・モリスといった、「コンセプチュアル」とくくられる作家が論じられている。そして第Ⅲ部「テクストの力学」には、ロザリンド・クラウスやグリーンバーグといった、美術理論についての批評的な文章が集められています。
印象的なのは、全15章のなかで、第1章がポロック、第15章がグリーンバーグであることです。そして、これが内容においても見事な循環構造をなしている。つまり、第1章では沢山さんが言うところの「隣接性の原理」が、ポロックの絵画に即したかたちで論じられている(『絵画の力学』8~37頁)。そして、この本の締めくくりとなる「形象が歪む」というグリーンバーグ論(同、360~389頁)では、グリーンバーグのフォーマリズムが、実際の政治的スタンスとどのような関わりを持ったかということが論じられている。その意味で、はじめはポロックの具体的な作品について論じるところから始まって、最後はそれと対をなすグリーンバーグ論で終わるという、見事な循環構造をなしているわけです。
単純に疑問なのですが、本書のタイトルはなぜ『絵画の力学』になったのでしょう? 内容を考えれば、必ずしも「絵画」である必要はないと思ったんですね。つまり、本書には絵画論だけでなく、コンセプチュアル・アートや美術理論についての文章も収められていて、その全体を貫く「力学(ダイナミクス)」の話をしようとしているように思えました。

沢山:グリーンバーグの批評のファシズム性

沢山 『絵画の力学』というタイトルにしたのは、単に語呂がいいから、ということもありました(笑)。序文では何もないキャンバスに一つの絵具の筆触が置かれ、もうひとつの筆触が置かれる、それだけで不均衡性とか緊張感、あるいは事物同士のポリティクスが生まれるという話をしています。絵画平面という最も単純な状況においてすら力学が生じる、ということを強調する意図がありました。
もうひとつは星野さんが指摘してくれましたけど、ポロック論で始まってグリーンバーグ論で終わるという循環構造です。ここからわかるのは、この本が対象としているのは、モダニズムの芸術であり批評であるということです。モダニズムの芸術では、絵画が特権的な地位を占め、絵画平面こそがもっともポレミック(論争的)で、ポリティカルな領域として位置付けられてきた歴史的経緯がある。そこに批評的な応答をする必要があった
とくに最後のグリーンバーグ論は、批判として書きました。これは本の構成自体に関わることですが、モダニズムの芸術を扱うことによってモダニズム批判を遂行するという目的があったからです。そこには、グリーンバーグが記述したモダニズム美術のあり方とは異なる記述の仕方を、しかもグリーンバーグ以降の批評の歴史を踏まえて、作品の形式的な側面を切り捨てることなく解析するという、かなり大それた構想があったように思います。
グリーンバーグは絵画平面からポリティクスを払拭、解消しようとしたわけです。彼は、絵画が最終的に、均質化され、オール・オーヴァーになり、視覚的な純粋性に奉仕するものになっていくという歴史を描いた。そこでは感覚、感性が全てだというわけですね。彼はカント美学の影響を受けて美的領域と感性的領域の接続可能性を全面化していく。だけどぼくの本では、むしろ、絵画というものが本来的に備えているはずの構成的な亀裂というか、ランシエールの言葉を借りて言うと、異質な要素がそこで分割=共有されている状況に作品を位置付けようとしました。亀裂から様々な物事が生じ、作品を駆動させる潜在的な運動性が展開しうるし、芸術作品をひとつの「出来事」として見ていくことができるだろうという確信があったんですね。

星野 すごく雑に言ってしまうと、沢山さんが言っているのは「グリーンバーグはファシストである」ということですよね。

沢山 ええ。

星野 グリーンバーグは元々マルクス主義者としてファシズムに抵抗する論陣を張っていたにもかかわらず、美術批評において結果的にファシズムを遂行してしまった。それが沢山さんのグリーンバーグ批判の最大のポイントだと思います。
具体的にはこういう一節があります。「つまりグリーンバーグのモダニズム論は、外在的な権力機構としてのファシズムへの抵抗を表明する政治的立場から出発する(中略)その一方で、今度は外在的な政治を排除した言説の内部において、ファシズム的な権力的統治を内在化するという営みによって完成する」(『絵画の力学』382頁)。ここが、やはりクリティカルな部分だと思う。そして、沢山さんが書いたポロック論は、まさにグリーンバーグとは違うかたちで、ポロックの作品を論じようとした。

沢山 そうですね。グリーンバーグがマルキシストとして出発し、戦後、美術批評家として前衛芸術を推し進めるときに、彼は、ナチズム、スターリニズムに対する嫌悪感が非常に強かったわけです。スターリニズムの実態が明るみになったときに、彼はマルクス主義者であることを放棄する。その際、抽象芸術や前衛芸術の可能性を彼がどこに見ていくかというと、感性や経験の前面化なのです。抽象芸術はその内部から政治を払拭することができる。ゆえに、絵画、あるいは抽象芸術に可能性を見いだしていく。というふうに考えると、彼の抽象芸術論は、要するにファシズムへの抵抗、スターリニズムに対する嫌悪感から出発していると思う。そして、絵画のオールオーヴァーネスとか、輪郭がなくなって色彩だけで絵画が成立するとか、あるいは平面的になっていくとか、全ての差異を均らし、無化していく方向性での作業を、グリーンバーグの批評は遂行してしまうことになる。
グリーンバーグに限らず、1930年代当時、ファシズムへの抵抗は、あらゆる批評家のなかで共通するプロジェクトでもありました。ベンヤミンもそうですよね。そこからいわゆる「表現主義論争」なども生じる。ファシズムに抵抗する芸術の可能性として、ベンヤミンたちが見いだしたものは、むしろグリーンバーグと逆に、芸術作品にある構成的な亀裂でした。特にベンヤミンは、映画に大きな可能性を見る。

星野太(右)と沢山遼の対談風景。東京・恵比寿のNADiff a/p/a/r/tにて

沢山 現代芸術の二大発明をあえて挙げるとすると、個人的にはコラージュと映画だと思います。どちらも構成主義です。構成主義は、20世紀の芸術が発明した最大の方法だと思うのです。ベンヤミンたちは断片の集合としての芸術に和解不可能な異質な要素の遭遇、ポリティクスを見ていく。かつ、そうした事物と事物の出会いが、観客自身の身体を素材として書き換えられ、編集され、再編される可能性を見いだしていく。しかし、グリーンバーグはそうした議論とは逆に、作品モデルの一元化、全体化を指向していた。
構成主義芸術の可能性は、観客自身が作品を再編することができることにある。ベンヤミンは映画にその可能性を見いだし、芸術の大衆化を言う。芸術の再編可能性のもとに、大衆が自分たちの活動として芸術を組織し、現実を変革する可能性です。ランシエールが言う「解放された観客」のアイデアはそれと無関係ではない。観客によって芸術作品の分有が意識されるというのは、ベンヤミン的な問題を引き受けていると言えなくもないからです。
その意味で、1930年代は、批評的な分岐点となったと思います。グリーンバーグ的な批評がアメリカの中で練り上げられていく一方で、ベンヤミンたちがナチズムに抵抗していく過程で起こった争点は、批評の歴史においては、実は大変重要な分岐点だったのではないか。

星野:フォーマリズムをどう再構築するか

星野 単純に言ってしまうと、「統合か分裂か」みたいなことですよね。どちらに重点を置くかだと思うんだけど、グリーンバーグ的なオール・オーヴァーネスや全一性みたいなものがファシズムだとなると、それを批判したロザリンド・クラウスは、メディウムの差異や異種混淆性を強調するわけじゃないですか。沢山さんもまた、グリーンバーグ的な純粋性ではなくて、クラウス的なずれや差異化を志向しているようにも見えます。

沢山 そうですね。批評誌『October』などのポスト・モダニズムの美術批評にベンヤミンが与えた影響というのは非常に深刻だと思いますが、創刊したアネット・マイケルソンは映画研究者ですし、そもそも雑誌の名前自体がエイゼンシュテインのフィルムから取られている。
批評的な分岐点は、1930年代のヨーロッパとアメリカのあいだで起きただけではなくて、60年代のモダニズムとポスト・モダニズムの間でも生じた。そのような分岐点をいかに受け止め、かつ、それと異なる論点を示せるかという課題は、ぼくの中ではありましたね。それをあえてモダニズム芸術の中でやる。
基本的に、モダニズムの作品というのは一元化していると思われるわけです。ミニマリズムに関しても、ミニマルで要素が少なくて、ポロックもオール・オーヴァーで均質化されている。バーネット・ニューマンになると、ただフラットな面に一本の線が引かれているだけみたいな、ごく少ない要素だけで成立しているというふうに思われている。だけど、作品の成り立ちを追っていくと、そういった作品にも亀裂を見いだしていくことはできる。彼らの作品は、構成主義と対立する立場をとっていたわけですが、構成主義の作品ではなくても、それはやれるということを見てきたつもりです。

星野 この話題は、われわれふたりの間にあるもっとも大きな接点なんですよね。だからどうしてもこだわってしまうんですが、ぼくの本でもフォーマリズムをいかに再構築するか、みたいなことを考えたところがあります。グリーンバーグは元々マルクス主義から出発したわけですが、彼が展開したものとは別の可能性があるとしたら、リレーショナル・アートがそうだったのではないか。なぜかというと、「関係性の美学」を提唱したニコラ・ブリオーが、初期に依拠したのがルイ・アルチュセールというフランスのマルクス主義者だったからです。ブリオーの「関係性の美学」の背後に、アルチュセールの「出会いの唯物論」があるという事実は無視できないものがある。それは、マルクス主義的な唯物論が、グリーンバーグ的なフォーマリズムとは異なったかたちで結実しかけたものではないか。ブリオーは最終的にそれを放棄したようなところもあるのですが、1990年代末にマルクス主義的な唯物論が、アルチュセールおよびブリオーを介して別の生を得る可能性がありえた――。そういう道筋を描くこともできるのではないかと思います。
だから、この本で強調してはいないけれど、ぼくもモダニズムの問題にはずっとこだわりがあるんですね。われわれはふたりとも、モダニズムやフォーマリズムの問題に執拗にとらわれているところがあると思う。

沢山:30年周期で回帰する批評的分岐点

沢山 単に批評の歴史的な問題ととらえずに、美学的な問題、理論的な係争としてとらえたときに、やはり同じ問題点が何度も回帰していると思いますね。さきほど言ったように、1930年代と1960年代に、まったく同じ批評的分岐点が反復している。30年周期で同じ問題が反復してきたと考えることができるわけですね。例えば、ブリオーの『関係性の美学』において、アルチュセールの「出会いの唯物論」を経由して、別のモダニズムあるいはフォーマリズムの問題が回帰してくる。それは、フォーマリズムのその別の様態でもあった唯物論的な問題として復活してくるというところがあると思うんですね。フォルムは、あらかじめ前提となるのではなく、力動的な関係、あるいは異質な力の遭遇の運動の中にしか存在しない、という考え方。
だけど星野さんの本を読むと、クレア・ビショップは、ブリオーの関係性の議論を予定調和な同質性を前提としていると批判するわけですね。異質な他者を排除していると。ビショップは、そこに運動を欠いた静的な構造=フォルムを捉えて、ブリオーをフォーマリスト、つまり構造主義者だとみなす。そこで何が脱落するかというと、ブリオーが言う「フォルム」というものが事後的に生成する出来事であるという可能性だったと思う。
ところが、さらに話がややこしいのが、ビショップが強調しているのが、まさにその力動性に関わることだった。つまり彼女はブリオーを批判する文脈で、ブリオーの「関係性」が前提とする同質性に欠けたものとして「敵対性」を強調するわけですから。安定的な社会関係を壊すような関係性の導入を、パフォーマティヴな次元で見ていくという話を彼女は著書のなかで展開している。現代美術を、パフォーマンス・アートの批評史の書き直しみたいなところで見ているわけですよね。

星野 いまの「30年周期」で言うと、1990年の30年後が2020年だから、ちょうど現在に帰ってきたところがあると思います。大ざっぱに整理すると、フォーマリズムにも静的と動的なフォーマリズムがある。静的なフォーマリズムというのは、いわゆる「型にはめる」タイプの悪しきフォーマリズムです。これに対して、動的なフォーマリズムというのは、何がフォルムであるかということをあらかじめ確定せずに、むしろ「ここ」にフォルムがあるということを見出していくものだと思います。
これを自分の本に引きつけて言うと、まさにこれに関係する話を第5章(『美学のプラクティス』92~120頁)でしています。昨今のソーシャリー・エンゲージド・アートは、まさに「フォルムがない」作品だと言われる。だから、それは「アート」ですらなく、「ソーシャル・プラクティス」だと言われたりもするわけです。けれど、実はそこにもいまだ見えざる分析単位としての「かたち」が存在して、それを見いだしていくのが、今日の批評の仕事なのではないか──。ぼくの議論はその可能性を述べたところで終わっているんですが、たとえば沢山さんが引きあいに出してくれたクレア・ビショップの最近の仕事には、まさにそういうところがあると思う。
具体的に言うと、彼女が数年前に書いた「Black Box, White Cube, Gray Zone」という論文がそうです。この論文の前提は、かつて厳然と分かたれていた現代美術とパフォーミング・アーツというふたつの領域が、次第に曖昧になっているという話です。これに空間的に対応するのが「ホワイトキューブ」と「ブラックボックス」、つまりギャラリーと劇場。それで、ビショップはその間に文字通りの「グレーゾーン」があると言っている。彼女が分析単位に据えるのが、携帯電話を持った鑑賞者なんです。彼らを、彼女はひとつのフォルムを持ったメディウムだと見なしている。それは従来型の「メディウム」からは明らかに外れる対象ですが、そこを起点として批評を立ち上げるというのはおもしろい試みだと思います。

沢山:見えない領域を見ること

沢山 芸術作品は、必ず作品という単位でフレーミングされてるわけですよね。外からそれを切り閉じる枠(フレーム)があって、閉じることによって、はじめて作品が作品であると同定される。作者は、完成/未完成は関係なく、鑑賞者が共有できるフレームを設定しなければいけない。それは絵画の額縁でもいいし、彫刻であれば大きさ、パフォーミング・アーツだったら空間、あるいは上演時間かもしれないけども、必ずフレームというものがある。しかし、そのフレームのなかには、ブリオー的に言うと、複数のアトムというかモナドというか、構成的な単位がいくつもあって、それが静止することなく運動し続けている。ひとつのフレームの中に必ずそれと無関係に動いている人たちがいて、実はそれこそがフレームを規定し、作品の構造を決定している。
ブリオーの話で思い出しましたけれど、彼はアルチュセールに由来する「出会いの唯物論」を下敷きにするわけですが、参照しているのはルクレティウスですね。彼はアトムという単位で世界が形成されているということを論じた古代ローマの哲人ですが(セザンヌが愛読していたことでも知られる)、運動が生じるのは、粒子と粒子との間には必ず空虚があるからだということを重視している(『物の本質について』岩波文庫、樋口勝彦訳、1961年)。
僕のカール・アンドレ論(『絵画の力学』204~222頁)も、実はルクレティウスの議論に近い。アンドレの彫刻は、構成要素となる同一単位のブロックが並べられていて、展示するたびに隙間なく並べられたりバラバラに解体されたりする繰り返しなんですね。なぜそれが可能になるかというと、要するに隙間があるから作品が動く。そういうふうに考えると、ぼくが批評において何を重視してきたかというと、モノをよく見るってことじゃない。モノとモノの間にある見えない領域を見る。そうすると、はじめてモノが動き出す、モノが出来事として生成してくる。目に見えない構造的な亀裂を見ることによって、はじめて形式を見ることができるとも言える。

星野 そうですね。あえてベタな言い方にしてしまうと、いわゆる図と地の関係みたいなものを捉えるのではなくて、むしろその図と地のせめぎ合いみたいなところを見なければいけないという言い方をしてもいいのかなと思いました。
沢山さんがMoMAで行なわれたフェリックス・フェネオン展についてのレビューを書かれていました。印象的だったのが、点描の一つひとつはアトムなんだけれども、それが複数集まると、むしろ点と点のあいだの隣接構造のほうが問題になってくると、個々の要素が構造の問題にスライドしていくのがおもしろいと思いました。

星野:「自由間接話法」の可能性

星野 ひとつ思い出したことがあったので、そちらの話題に飛びます。今回、『絵画の力学』を読み直していて、沢山さんの「自由間接話法」が出てくる瞬間がいくつかあるなと思いました。つまり、沢山さんがポロックやアルバースについて語っているとき、肉声がポロッと出てくる瞬間があるような気がする。たとえばアルバース論のなかに、「芸術家の役割は、事物に備わった固有の条件・可能性を引き出し活用することである」(『絵画の力学』、92頁)という一文がポロっと出てきます。これは、文脈を考えればアルバースが考えていたことを敷衍しているようにも読めるし、自身の考えを書いてるようにも読める。それを、自由間接話法と言ってみたわけです。
もうひとつ、ロザリンド・クラウスについて書いているところにこうあります。「国際的な美術の「ファッション」と化したインスタレーションとインターメディア的な実践は、スペクタクル化されたイメージのグローバリゼーションに奉仕するものではあれ、それに抵抗する処方とはなり得ない」(『絵画の力学』356頁)。この一文も、文脈からクラウスが言っていることを沢山さんが敷衍しているようにも読めるし、沢山さんの肉声のようにも読める。沢山さんが「思想」と呼んでいるものはこういうところに宿ると思う

沢山 それも美学の問題に関わると言えるかもしれない。なんていうかな、批評家であるということは、ある種の二重性を帯びざるを得ないところがあって、理論的、思弁的、抽象的に語る、あるいは思想的な問題を語るということと並行して、それを具体的な実践の中に落とし込んでいかなければいけない。その具体的な実践の対象は、作家かもしれないし、作品かもしれないし、テクスト分析の場合は書き手かもしれない。その多重性の中で批評は書かれていくはずで、ゆえに一つのテクストの中で複数のレベルの声が共存するような、錯綜したところがある。
例えば実践と理論の往還関係をつきつめると、テクストが言っているのか、書き手が言っているのか、それとも読解者である私が言っているのかという、複数性のようなもの。批評という営為自体がそれを構造的にはらんでしまうのでないかとも思う。端的に言うと、誰がこのテクストの主体なのかわからない、ということですね。批評はゆえに「この私」が作品やテクストに巻き込まれ、危機に立たされる瞬間、「私」が変容する瞬間を記述することなのかもしれません。

星野 ものを書いてると主体が自分じゃなくなるというか、対象に書かされているような感覚になります。自分を半分イタコにするような感じだけど、それこそ物質的な抵抗をともなったイタコとして書いている感じはありますね

星野太・沢山遼

星野太・沢山遼

【星野太(ほしの・ふとし)】1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は美学、表象文化論。主な著書に、『崇高の修辞学』(月曜社、2017)、『美学のプラクティス』(水声社、2021)。主な訳書に、ジャン゠フランソワ・リオタール『崇高の分析論──カント『判断力批判』についての講義録』(法政大学出版局、2020)などがある。【沢山遼(さわやま・りょう)】1982年生まれ。美術批評家。著書に『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)。共著に『現代アート10講』(田中正之編著、武蔵野美術大学出版局、2017)などがある。